第4章 臣民か、市民か——共同体の政治的なものから社会的なものへ |
1. 帰属の多層性——国家と民族
(1) 大統領の写真——政治的象徴としての大統領
(2) 王の肖像——家庭の庇護者
(3) 帰属の多層性——エマニュエルの事例
2. 多層的な「国家的なるもの」——分枝国家論とポストコロニアル家産制国家
(1) マムダニの分枝国家論
(2) 開発とポストコロニアル家産制国家
3. 社会的なものをめぐって——内戦後のウガンダの二つの社会の埋葬儀礼
(1) アフリカにおける社会的なもの
(2) ウガンダの二つの埋葬儀礼
(3) 「主体」の枠組みとしての国家
4. 柔軟なアフリカン・シティズンシップ——多層的で可塑的なアフリカ市民
(1) 民族、市民、臣民① コンジョ‐ナンデの二重性・多重性
(2) 民族、市民、臣民② 「ルワンダ系・コンゴ系移民」という見えざるマジョリティ
結論——多層的な帰属性と可塑的な自己成型
だが、ゴドフリーたちの証言を前にすると、ウガンダにおける民族帰属の二重性(もしくはそれ以上の多重性)には混乱させられる。ここで問われていることは、次のようなことである。ガンダ王カバカを支える人々として暴動に参加したものたちは(「環境運動」として盛り上がったマビラ暴動ではともかくとして)、ガンダ人ではないのか。デモや暴動などに参加して、ガンダ人としての民族のアイデンティティを求めながら、他から「ガンダ人」と認められない人々とはいったい何者なのだろうか。 そして、どのような政治的・社会的な因果がそのようなことを生じさせるのだろうか。
このようなウガンダにおける人々の多重な帰属性を考えるには、いくつかの事例を読み解いていく必要がある。これは都市にいる人々の集団性や社会性を前提としつつ、どのような権力構造や資源の分配がなされていくかという政治学を見つつも、その政治的力学の根底にある集団性がどのように成立しているかを問う、政治人類学の分析となる[6]。そのため、本章での目的は、ウガンダにおける人々の「国家」や「民族」への帰属性がどのようなものかをまず明らかにすることである。だが、その上で確認したいことは、人々が自らの帰属性を求める中で、どのような「社会的なもの」がウガンダの(特に首都カンパラの)人々によって求められているかであり、その「社会的なもの」は前章まで問われていた「政治的なもの」とどのように重なり、どのように重ならないのかということだ。
だが、それらの問いに辿りつく前に、ウガンダ(/カンパラ)における日常化した二重の(もしくは重層的な)民族の帰属性がどのようなものかをまず示していこう。そして、かれらの帰属性(それはかれらの「社会的なもの」を想起させる)を考える中で、民族/王国下にある「臣民 subject」としての人格が優先されるのか、ウガンダ共和国という国民国家下における「市民 citizen」としての役割が重要であるのか、それとも、その二つの帰属性は単なる便宜的で一時的な帰属にすぎないのか、人々の(若干古いタームでいう)アインデンティティがどこにあるのかを考えてみようと思う。
1.帰属の多層性——国家と民族
(1)大統領の写真——政治的象徴としての大統領
ウガンダの政治的象徴は一つではない。共和国という政治体制をとるウガンダには大統領が存在する。だがキセッカ市場での一時的な祭典での王カバカへの歓待に対して、大統領にはどのような感情がカンパラの市内で示されているのだろうか。
前章で示したようにウガンダでは1962年の独立から現大統領ムセヴェニが1986年に現職に着任するまで、大統領の座(国家主権)をめぐる内戦に悩まされてきた。そして2020年の現在では、ムセヴェニがその座に就いてから35年近くが経つ。人類学者の中林が述べるところの左派ポピュリスムの系譜にあるムセヴェニと彼の率いる与党NRM(国民抵抗運動)は、政権奪取からしばらくの間は、その自由な言論と人々の自発性を謳ってきた[中林 2006:57]。だが、その政権も何度かの再選・再々選を繰り返すにあたり、警察や軍を通しての半ば公然とした野党候補への選挙妨害を行うにいたり、軍事的・独裁的な色彩を強めている[Wiegratz, Martiniello & Greco 2018]。そのため民衆の間ではムセヴェニ(国家)に対して複雑で相反する二つの感情がある。それは庇護下にある安心と理不尽な暴力に対する不安である。
王の肖像と違い、大統領の写真は上記のように必ずしも自発的に飾られたものではない。だが、共和国制度という政治的権威づけに、写真の掲示は一つの役割を果たしている。多くの近現代史で示されたように、国家の君主や元首、また国家を代表するような英雄などの写真イメージがテレビやメディア、あるいは広告などを通して街の風景の中で繰り返し登場することで[キャナダイン 1992;アンダーソン 2007]、人々の心性へその人物への象徴的な権威が刻印される[Homans 1993]。それはブルデューが述べる国家の象徴資本を担保する[ブルデュー 2009a]。だが、その権威への服従が常に監視され、報告されるものであれば、その象徴は先の暴動で示したように、服従と抵抗の対象として二重の(相反する)意味を持つことになる。カンパラの街中で見られる大統領の写真は、畏怖と敬意によって成り立つ国家の(不安定な)存在を隠然と示すものとしてある。
前章の2011年の選挙の風景で描いたように、ムセヴェニと現政権与党のNRMの選挙運動は、文字通りのカネのばらまきであり、人々にとってはある種の理想的なパトロンとして振る舞っている。ただ、ここで気をつけねばならないのはバヤールがすでに指摘したように、国家と民衆のパトロン‐クライアント関係は「外翻」[8]という不安定な実践と表裏の関係にあることだ。例えばAという政治家が選挙権を持つ自らの代表地区にすむ人々に対して、自らへの投票を依頼するかたちでカネ、もしくは生活必需品を配る。だが、その一方でBという政治家が現れ、より多くのカネとモノとを配り始めたとき、人々は容易にその政治家Bへと鞍替えする。現代アフリカの「民主政治(選挙)」におけるパトロン‐クライアント関係でのパトロンは、常に約束する富や財の大きさを比べられ、競合する存在としてあり、その地位は必ずしも安定したものではない(従来のクライエンテリズム/恩顧主義の議論ではパトロンとクライアントの関係はある程度固定され、流動的なものではない)。クライアントは容易にパトロンの資産を食い尽くした後に、次のパトロンへと移る。そこには伝統的首長が持っている象徴資本の安定性が欠けており、その富の分配の能力の欠如によって、権力が容易に変化するという不安が常につきまとう。
大統領であるムセヴェニを象徴するのは、その分配の頂点の地位である。だが、その権力の基盤は上記で見たように安定が約束されておらず、国家の元首である大統領は、政治的不安定さを補うために、専有された権力と暴力を恣意的に用いていく傾向にある。それは先に述べた選挙献金を通した企業の選別や、警察や警察を用いた政敵の排除、また治安を約束する自らの政権(一種の軍事政権)の不在による社会的不安の増大を利用して、選挙を勝ち抜いていく方法に表れる。そして、その権力と暴力への依存は特に新自由主義的な政治経済圧力による「社会的なもの the social」の瓦解によっていっそう強まり、さらなるパトロン‐クライアント関係の希求に繋がっていく。新家産制国家[10]と新自由主義的な経済の共犯的な関係はここでも繰り返され、強化されていくのである。
そのために、大統領の写真は店先や受付で表面的には敬われ、掲示されつつも、カネとモノのつながりとしてのみの空虚な象徴として都市空間の中で消費され、流通していく。ムセヴェニとNRMが以前に約束していた地域的な共同体としての政治は失われ(第5章で詳述)、水平的な関係での連帯が想像しにくい状況にある。
(2)王の肖像——家庭の庇護者
では大統領の写真が一つの国家権力の(ある種強制的な)庇護の一端として位置づけられていく一方で、並べて飾られている王の肖像はなにを意味するのだろうか。
このように国の象徴資本が、その国の王族やその家庭によって担われているということは必ずしも現代の国民国家において珍しいことではない。例えばイギリス王室は、イギリスの愛国主義者たちの間では上記であげたような役割に当てはまる。エリザベス女王の写真とその息子(チャールズ皇太子)や孫たちの家族の写真が飾られ、その理想的な家族像が自らの家族像と重ね合わされる。だが、国家元首であるボリス・ジョンソン(やその家族)の写真が飾られることはない。デンマークやベルギー、スウェーデンなど、多くの王室を残しているヨーロッパの近代国家において、王室が国家の象徴資本を担っていることは一般的なことで、行政を代表する首相や政治家がそのような役割を担うことはない[12]。
だが、ウガンダの状況において気をつけなくてはならないのは、王室の象徴資本の担われ方が、ヨーロッパの諸国家と比べてややねじれているように見えることだ[13]。例えば、ウガンダにおいて現在に共和国政府(ムセヴェニ政権)によって認定されている王国は5つあり、そしてムセヴェニ現政権がその王国の権力について常に強調するのは、王国が「文化的な権限」(儀礼の執行など)を持つにしても「政治的な権限」は決して持たないことである[14]。またヨーロッパ的な近代における「国民国家」の条件となる、一つの民族/国民に対応する一国家でなく[15]、多民族国家として成立している。かつ、それらの国民の象徴とされる王権や民族的首長は多数に分かれ、それらの一つが「ウガンダ国民」を代表するのは非常に難しい状況となっている。唯一、それを成し得る[16]のはガンダ王カバカだが、ウガンダの近代史で見たように、その植民地的権力を背景とした王権と間接統治は、独立後、他民族からの強い反発に遭い、結果として当時のカバカは追放され、長い内戦を生むこととなった。
そのような社会的・歴史的背景のために、ウガンダの文化的首長がイギリスの王室や日本の皇室などのように、一部の外交儀礼などの役割を果たすことは求められず、かれらの役割は、それぞれの民族や王国内での共同体の日常的な象徴にと留まっているにすぎない。だが、その日常的な象徴性が、その実、根深い国民間での対立や政治的な分裂に繋がり、一つの「想像の共同体」としての国家であるウガンダを、想像しにくいもの、もしくは日常の中では不在のものとしてもいる。
(3)帰属の多層性——エマニュエルの事例
ただ、この大統領と王の二つの写真を飾る人々の店や家というのは、ウガンダの都市空間の中で日常的なものでありつつも、必ずしもウガンダ、カンパラにおけるすべての人々の現実を示しているわけではない。受付や支配人室に大統領の写真を飾る人々は、いうなれば都市の住民の中で成功した人々で、ごく限られたエリート層である。ホテルやスーパーマーケットの使用人たちは写真の下に働くものの、「自主」的に写真を掲げる立場にはない。
またブガンダ王カバカ(もしくはブニョロ王ムカマ、ブソガ王キャバジンガ)の写真を飾る人々も、実のところそれは王からの認可を得た土地を持つ人々(ガンダ語ではアバタカ abataka と呼ばれる)の係累に限られている。2012年の国民調査では、総人口556万人(ウガンダの人口の16.5%)のガンダ民族だが、その多くは土地を持たず、自らの民族的出自があいまいなままガンダ人を名乗るものが多い。
例えば筆者のメインの調査地であるナムウォンゴ・スラムにはコンゴ民主共和国、ルワンダ、南スーダンなどの隣接国からの移民/難民が多く住まう場所としてある。そのうちの一人にコンゴ(民主共和国)からの移民エマニュエルがいる。彼、エマニュエルはカンパラのナムウォンゴ・スラムに暮らしながら、コンゴに自宅を持ち、常にコンゴとウガンダの間を行き来して暮らしている。そして、重要なのは(ほかの多くのウガンダ人と同様に)、コンゴ、ウガンダの両方に国籍を持ち、いずれの国家の市民権(シティズンシップ、この場合は投票権や国籍などが含まれる)も獲得していることだ。ウガンダ西部出身の人々においてはこうした例は実際に珍しくない。ルワンダ系移民/難民もこのスラムに多くいるが、たいていはルワンダに土地を持ちながらも、ウガンダのスラムにも生活の基盤を置き、二つのシティズンシップを自由に用いている。
エマニュエルの事例で注意しなくてはならないのは、彼の帰属の多層性である。彼はコンゴのブィシャ(コンゴにおけるフトゥ系民族)[17]出身なのだが、ウガンダにおいてはそのブィシャの名前とは別に、ガンダ民族の名前も持っており、またガンダのクランにも属していると語る。そしてウガンダのナムウォンゴ・スラムで一緒に住む家族たちにもガンダのクランの名付けをしていっている。そのことについて彼に尋ねると、彼はコンゴにおいてはブィシャとして、そしてウガンダにおいてはガンダとして振る舞っており、ウガンダにいる子供はガンダとして育てていることを認めていた。
このエマニュエルのような多重の属性を意図的に使い分けるというのは、ウガンダのナムウォンゴ・スラムの中では(ここまであからさまに明かされることは珍しいものの)特別というわけではない。ルワンダ系移民/難民の多くは、ルワンダの名前とガンダの名前をそれぞれ別に持っているか、もしくはウガンダではガンダ名(もしくは西の隣接民族のアンコレ名)を名乗り、ウガンダ人として生活している。そしてガンダ民族をはじめとして、ウガンダの人々も移民/難民の人々のそのような同化のあり方を受け入れているという状況がある。ウガンダにおいて民族の帰属は何らかのかたちで二重性(もしくはそれ以上の多重性)が刷り込まれていて、状況に応じて使い分けられているという現状がある。
2.多層的な「国家的なるもの」——分枝国家論とポストコロニアル家産制国家
(1)マムダニの分枝国家論
さて、上記のようなウガンダにおける政治的主体とその帰属のあり方を探るために、本節ではアフリカのポストコロニアル国家の政治論に大きく寄与をしたマフムド・マムダニの『市民と臣民』を取り上げ、その著作で主張されている「分枝国家」の概念[18]―宗主国によって領有された都市部の市民性と間接統治によって王や首長に領有された臣民性の分枝された国家―について批判的に分析していきたい。
前節でのエマニュエルのような多重の帰属性はともかく、あからさまな政治的な分裂を誘発しがちな王国や首長国などの領域的な亜国家 para-state は、ウガンダの現ムセヴェニ政権の中で政治的権力を剥奪したかたちで扱われ、政治的主体(アクター)としては常に敬遠され続けてきたが[中林 2005, 2006;Mutibwa 2008]、国際的な知名度から国際支援の対象の受け皿としては部分的に機能してきた。ブガンダ王国も2010年のカスビ王墓火災からの復興を求めて、多額の支援金を「王国」の名前で援助ドナー機関に求めたこともある。
王国や地方首長がこのようにある種の行政的な組織として機能しつづけてきたことについては、英国の植民地行政の間接統治以来、「分枝国家 bifurcated state」の特徴であるということ、そしてそれがアフリカ全体のポストコロニアル国家群の病理を示すものだということが、マムダニの『市民と臣民』での議論の根幹にある。そこで、まずマムダニの「分枝国家」の議論を要約し、そのことについての批判的言及を付した研究を次いで紹介することで、現在におけるアフリカの「分枝国家」論に関する問題を考えてみよう。その後にその中で密接に関わる政治的主体としての「市民citizen」や「臣民subject」について触れていく。ちなみにマムダニという政治学者のアフリカ研究が、どのように人類学的な問いに重なるかという、理論的問題にも多少言及を行っていきたい。
マフムド・マムダニと彼の研究についてまず説明すると、マムダニはウガンダにて、インド系の父とウガンダ、ソガ人の母との間に1947年にカンパラで生まれた。1972年のイディ・アミンの政権下において、インド系移民追放の政治的迫害を受け、イギリスに亡命。その後、タンザニアのダルエスサラーム大学にて博士号を取得する。それから西アフリカの研究機関CODESRIA[19]や、南アのケープタウン大学にて研究を行い、現在はコロンビア大学教授、およびマケレレ社会調査研究所所長として、アフリカ研究を牽引する学者として活躍している。
さて、まずマムダニは、その代表的な著作『市民と臣民』で、アフリカの後期植民地主義に焦点をあて、イギリスの間接統治がフランス領(北アフリカおよび西アフリカ)、ポルトガル領(アンゴラ、モザンビーク)、ドイツ領(ナミビア、タンガニーカ)のアフリカそれぞれにおいてモデルケースとして、各植民地の統治に適用され、アフリカ国家の雛形となっているという状況を提示した。そして、その議論はアフリカ地域研究者たちの中で概ね賛同を受け[Comaroff & Comaroff 1999;落合 2003;川端・落合 2006;峯 2007;中林 2013]、彼の「分枝国家」論は現在においてアフリカ政治学の出発点の一つとなっている。
彼の議論の前提としてあるのは、まずアフリカの国家の状況を近代や開発など直線的に進む「歴史的」なアナロジー(ある種の進歩主義史観)で分析するのでなく、歴史的事実を積み上げ、独立した社会科学の対象として分析していこうとする点である。そのために彼は90年代当時のアフリカの崩壊国家論(バヤールなど)に、ヨーロッパ的な色彩の強い「市民社会論」を繋ぎ合わせる研究に対して批判的に言及する。またその一方、「アフリカ主義」(「アフリカ」を地域特有なオリエンタリズムに押し込める)的な地域研究分析に対しても、その視野の狭さから批判的に扱っている[Mamdani 1996:9-11]。
そのような進歩主義史観やアフリカ文化の絶対性を唱える研究と距離を取りながらマムダニが行うのは、アフリカ近代国家の歴史的経験としての植民地主義についての分析である。彼は南アフリカとウガンダ、またその他のサハラ以南のアフリカ諸国の事例を並べ、「アフリカ国家」の特徴として、間接統治という植民地経験と、「分枝国家(bifurcated state)」の概念をあげる。そして、市民社会は植民地行政府が管轄した都市部のみにあり、農村部は慣習法の世界として切り離された。つまり二つの国家法での論理と規範が同一国内に併存させられていたこと、またその状況が植民地下の「間接統治」によって作られていたこと、そして、それらがアフリカ国家の特殊性を作り上げてきたと主張するのである[Mamdani 1996:16-18, Ch. 3]。
この分枝国家という概念において、彼の議論では、南アフリカ共和国は必ずしもアフリカ内での例外的国家という議論にならず、典型的な植民地国家の完成形として示される。この際、マムダニは中央都市部での法制定を「人種」間の隔離のためのものとして置き、地方のものを「部族」間の分離のものとして置いて、その人工的なトポグラフィックな棲み分けについても言及する。つまり、南アでは悪名高いアパルトヘイトのみならず、アフリカ全体での民族の分裂と隔離とが植民地政府によってなされ、それが多くのアフリカ諸国での内紛の一因ともなったことを指摘するのである[Mamdani 1996:Ch. 6 & 7]。
彼の議論が説得的なのは、これらの歴史的なプロセスが、現在の「地方分権化された専制主義 decentralized despotism」の基礎を作り、それらが地域的な内戦の種を撒き、かつ汚職などのクライエンタリズムの温床となったことにもつなげている点である。そして独立後のアフリカ国家において中央集権的な国家システムを作ろうとする試みが、いかにこの分枝性によって失敗を経験せざるを得なかったか、中央集権制がかえって植民地時代に強化された原住民局 (Native Authority) が中央集権的な権力を「代行」することで、地方行政の強化という特色が強まったことなどを、多くの歴史文献を渉猟しながらも、自らの仮説を例証していった[Mamdani 1996:Ch. 4 & 5]。そして、間接統治制度から現代の「分枝国家」という歴史的流れは、ある種の説得力をもって「アフリカ国家」論の一つとして受け入れられていったのである。
だが、上記のようなマムダニの『市民と臣民』の議論を、出版から四半世紀近く経った現時点で批判的に言及できる部分は少なくない。例えば、分枝国家の特徴を植民地行政機関が存在した都市部と農村部の二極的な構造をともに示しているが、ウガンダにおいて王国の統治が部分的とはいえ王国の首府のあるカンパラ都市部でもなされていた[c.f. Gutkind 1963]ことを考えると、都市部があまりに明確に「市民」と「臣民」の政治規範に分かれていたとは信じがたい。また、その分析構図をアフリカ全体に当てはまるあまり、移民の流動的な要素を重要なものとみなしつつも[Mamdani 1996:Ch. 7]、都市部と地方と安易に二分化し、その両方にまたがる対象の二重性についてはあまり分析のメスを向けていないように思われる。
加えて、彼は原住民局という、慣習法を司りながらも地域的な実権を握っていた地方行政を、批判的に描写し、そしてそれに基づく「部族」の境界が植民地政府によって人工的にもたらされたことを指摘しているが[Mamdani 1996:Ch. 3]、王国に基づいた「慣習法」や「民族」がウガンダにおいてまがりなりにも移民を含めた人々の帰属を規定し、実践的に施行されていった経緯については、あまり重視していない。つまり「王国」などの文化的、かつ政治的なファクターがどのように人々の日常的現実として受け止められているかについて[20]は、彼の政治学的な手法(参与観察でなく二次的に聞き取りを行ったという調査方法)から、無自覚な部分が多いように思われる。他にも、彼の議論では政治経済など具体的な事象の事例についてかなり広範で的確で手堅い分析を行っている反面、政治の情動性(不安定な人々の感情的な揺れ動き)や人々の王国/首長国への主体化=従属化などについては(フーコーの統治性を中心に繰り広げられた「主体化」の議論[21]がもちろん含まれる)、理論的に対応しておらず、その「市民と臣民 Citizen and Subject」というタイトルを、いまの視点では若干裏切ったものになってしまっていることは指摘せねばならないだろう。
もちろん、こうした理論的な欠点は後の彼の著作で補われてはいる。たとえば彼が1997年のコンゴ内戦に関する調査を踏まえて発表した論文の「アフリカの国家と戦争 African States, Citizenship and War」では、ウガンダ、ルワンダ、コンゴ民主共和国の三国間における移民の流動性と固定化されない帰属性が、「国家」と「シティズンシップ」という現代的な保障システムの中で、どれほどに不安定な位置づけをされているかの分析を試みている[Mamdani 2002]。また2009年に発表された『救うものと生き残ったもの Saviour and Survivor』は、スーダンのダルフールの虐殺をめぐる国際救援運動と地域的な政治運動のギャップを指摘しつつ、「救うもの」の主体と「生き残ったもの」の主体の違いを際だたせ、国際政治と地域政治における錯綜する「主体」の意味についても問い直しを行っているものといえる[Mamdani 2009]。そして2012年には、『市民と臣民』をアフリカだけでなく、世界的な植民地と欧米近代の政策分析と理論とに適用させるように、『定義と支配 Define and Rule』を発表し、植民地支配で培われた人類学的な知見と支配の技術が、いかに接合して「民族」をベースにした間接統治を編み出したかについて改めて論じている[Mamdani 2012]。
だが、それにしてもマムダニの議論で欠けているのは、アフリカ政治における「個」の視点である。アクターとなる集団の政治経済的な基盤(下部構造)への分析を足掛かりにし、その政治的動態(マルクス主義的な上部構造としての社会や文化)への考察を深めていくそのやり方は、分析する対象の細部の差異には迫らず、「個」がどのような葛藤を抱えていたかについては言及をしない[c.f. 真島 2000]。初期の著作[Mamdani 1976]でも顕著であったが、彼の研究ではマルクス主義的な下部構造が上部構造を決定するような枠組みから、法制度や経済などの具体的な社会基盤への分析が優先され、その上で政治力学の分析が進められているように思える。
ただ実際のところ、先に述べたような理論的な弱点やマルクス主義的な偏向にかかわらず、マムダニの議論がアフリカにおける政治学において重宝されているのは、この都市部と地方の分枝的な状況、ある種の二分法によって現在のアフリカ諸国の社会情勢について説明できる部分が多いからである。その反面、人間の情動や行動、そして一つの実践(特に前節で扱った帰属など)を見る人類学の視点においては、マムダニはどうしても具体的な社会的事実(法の制定や政治制度)のみを論拠とした政治分析のみに留まっているように見え、また中林が指摘するように、農村や都市下層の人々を包含する日常性についての分析も表面的なものに過ぎない。
マムダニの主張する、現代アフリカにおける分枝国家の基本的な構造(都市‐市民法と農村‐慣習法の二極化の構造)を、本論では否定しない。植民地主義の歴史的な痕跡は、それぞれの「民族/部族」の呼称とともにさまざまな形でアフリカの現代に残されており、かつ植民地期の政治体制は現代のアフリカ国家の政治的体制の基盤ともなるべきものである。だが、慣習法にまつわる王国や首長国という「伝統」的な構造はマムダニが分枝国家の議論でその重要性を主張しているが、アフリカ各国での度重なる内戦や公的な富をめぐる争いの中で、その象徴資本を活用するために頻繁に利用されつつも否定され、そして時に応じて復興されるという、非常に流動的なものとしてあることは指摘する必要がある[cf. 中林 2013]。そして、現代アフリカの公的なものをめぐる政治は、統治者のみでなく統治される人々の欲望によって動かされてきた。以下では、マムダニの議論をある意味補うために、国家の下にある人々の集団の中の政治性と社会性とをそれぞれに分け、それが国家における「開発」という制度の中でどのような相克を生んできたのかを見てみることとしたい
(2)開発とポストコロニアル家産制国家
政治的なもの(the political)を社会構造の垂直的な動き(権力の行使)を成立させる何かと考えたとき、社会的なもの(the social)は水平的な関係を成立させる何かとしてある[22]。えてして近代のアフリカ国家は、この政治的なものと社会的なものを同時に成立させ「国民国家」を構成させるべく、さまざまな政策の試みを行っている。その代表的なものが「開発」[23]であろう。開発言説や政策における、フーコーの議論でいうところの「従順な主体」の形成は、「主体化/臣民化 subjectification」を促すものとされる[フーコー 1977;バトラー 2012]。国家による社会の制度化、権力の底辺社会への浸潤、それらが開発政策や福祉、そしてメディアなどの社会言説を通して達成されていく、それがフーコーの描いた近代だが、アフリカの人々はその近代に対して柔軟に抵抗し、それぞれのやり方で適応しているとも言える[松田 1999; 2006;Ferguson 2006]。
問題は、ここで述べられているアフリカの人々の主体性が、開発主体として意味するものとも[Ferguson and Gupta 2002]、また新自由主義的な潮流の中で資本と戯れるように活動する柔軟な主体とされるもの[Ong 1999]とも、どれも異なるものとしてあることだ。国民国家の近代化・産業化の過程に必要とされる「開発」は(ここではファーガソン[Ferguson 1994]の顰みに倣って鍵括弧付きで言及する)、その目的のためにある前提を(現実がどうであろうとかかわらず)押し進めていく。その前提とは国家の領域内に(移民であろうとなかろうと一時的にも)定住する、賃労働を目的とした労働者の創出、その労働力に基づいた資本の形成、そして資本の再生産を支える道路や工場の施設などの産業インフラの建設である[c.f. Escobar 1996; Ferguson and Gupta 2002]。最終的に、これらの労働力・資本・産業インフラを軸として、国家を支える税収や軍役、そして国家の主権の権威を保証するものとしての市民/国民が、立ち上がっていく[佐藤 2014;立石・篠原 2009]。
だが1960年代以降の現代史を振り返ると、これらの開発から近代国家の成立までのプロセスを、アフリカの諸国家は必ずしも素直には踏んでいない。アフリカの経済的な低「開発」の理由70年代の石油ショックに始まる世界的な産業不況、その後の80年代の世銀やIMFによる構造調整、そして冷戦後の90年代に多発した内戦・紛争などの大きなグローバルな流れの中で、そのアフリカの「低開発」の理由が語られていたが[Ferguson 2006]、開発や資本形成(つまり近代国家の成立)に必要とされる、ある種の特有な市民性(いわゆるシティズンシップ)は、先に述べたバヤールの、アフリカの外翻的な実践と、公共性を保持する立場と公共性を掘り崩してく立場の違いから、並立しないものとしてあるのではないか。90年代から2000年代にかけて議論されたアフリカの市民論において、外部から押しつけられる開発主体と、近代の中での外翻実践などを駆使する主体(パトロン‐クライアント関係に連なる臣民)は、相互に重なり合いながらも、本質的には後者が前者を浸食するかたちで、「市民」がイメージされているのではないか。
ムセヴェニ治世下にあるウガンダは、1986年から2000年代初頭にかけて、内戦後の国家インフラ(教育・医療・交通など)の弱体化を国際社会に訴える一方、国内ではそのための「開発」を政治的にうまく活用し、国民国家としての体裁をうまく整えた経験を持っている。だが、その反面「開発」の国家政策化を行った内戦後の30年間は、政治的なものを家産的な制度(パトロン‐クライアント関係)の中に取り込んでいく過程ともなっていった。
筆者がウガンダに初めて訪れたのは1997年のことである。当時、あるNGO[24]に属していた筆者は、プロジェクトのフィージビリティ・スタディー[25]の一環として、中央部の内戦終結(厳密には北部のLRAの内戦は進行中であった)から、まだ十年ほどしか経っていないウガンダに赴き、そこでウガンダ中西部の農村(ムベンデ・ディストリクトのチリヤドンゴ・ヴィレッジ)とカンパラのスラム(ナムウォンゴ地区)でのプロジェクト形成に関わっていた。当時のウガンダは援助ドナーからは優良な被支援国として知られていた。内戦を勝ち上がったムセヴェニ大統領による優れた統治(グッド・ガバナンス)と、そして先進的な地方分権化、またかなり深刻なエイズの被害についての情報も、サハラ以南のアフリカ諸国の中で率先して公開をし、名高いABC運動(Abstain, Being faithful, using Condoms)などで、HIV感染率の低下をもたらした[Epstein 2008]。実際にアミンのタンザニア侵攻(1978年)に始まる8年に及ぶ内戦では前オボテ政権の軍隊による虐殺行為など、ルウェロ付近の当時のウガンダ中西部は近代的な社会インフラ(病院・学校など)の立ち遅れが激しく、調査に携わったムベンデの農村地域の人々は開発のプロジェクトの誘致に非常に熱心で、かつプロジェクト形成に携わる日本からのNGOのスタッフにとって、人々がそれを進んで望んでいるという意味合いにおいてその地域での開発の持続性は非常に有望な土地に思えた[26]。また開発への希望だけでなく、当時のNRM主導による無党制政治(No Party Political System)[27]によって、地域の民主化・地方自治化に向けての「運動」が進み[峯 2007]、農村レベルでの地方自治体の開発、政治参加が活発化して、一種の熱狂を帯びていた[28]。
そのほぼ十年後にウガンダを今度は筆者自らの調査[29]で訪れ、その後に日本の在外公館の援助事業[30]に携わることになったが、そこで目にしたのはいわゆる「援助漬け」となり、政治的なものが社会的なものを分断していくようなウガンダの現実である。
ウガンダにおける「援助」が政治・社会に与えた影響を述べる前に、なぜウガンダのようなアフリカの小国に援助、国際的な資金が集まっていったかを説明していこう。ウガンダの地政学的な位置づけを国際外交の視点から改めて述べておく。ウガンダはレアメタルなどの資源豊かなコンゴ民主共和国の東隣に位置し、かつ石油を算出する新国家である南スーダンの南側に位置する。また90年代からコンゴ民主共和国内内戦に積極的に介入し、また南スーダンの現在の政権主体であるSPLM(スーダン人民解放運動Sudan People’s Liberation Movement)を支援して、その2011年の独立を助けた国でもある。つまり地政学的にいうと、中東部アフリカ地域の治安に貢献し、大きな影響力を持つ国と考えられていた。また上記に述べたムセヴェニ大統領のいわゆる「グッド・ガバナンス」(エイズ禍への対応、情報の公開、治安の安定化など)もあり、援助外交上での信頼性は高いものとしてもあった。
また、地政学的な位置や国際的な信頼性だけでなく、ウガンダには内戦を勝利し、高い実戦経験を持つウガンダ国軍などの軍事的なプレゼンスもある。前章においても言及した2011年の選挙前の事件に2010年7月11日に起きたワールドカップ・テロがあるが、この数十名の死者を出した爆破事件は、その後ムセヴェニと与党NRMの支持率の上昇[31]を助けるとともに、ウガンダのアフリカ大湖地方における国際的な軍事的役割の重要性を浮き彫りにした。アル・シャバブの犯行声明が出された後、ムセヴェニは即座に平和維持軍としてウガンダ兵2000名のソマリアへの派遣増員を決定し、結果として大湖地域におけるウガンダの軍事的なプレゼンスへの認識が国際的に高まったのである。またソマリアだけでなくレアメタルなどの資源の収奪と南アフリカ資本と結びついたコンゴ東部紛争へのルワンダとウガンダ両国の関与[Prunier 2009]もウガンダの軍事プレゼンス(肯定的にも否定的にも)を量るに重要な要因である。そして南スーダン、ブルンディ各国への政治的影響力は、上記で述べたウガンダの地政学的な位置とムセヴェニの親英米的な態度によって非常に高いものとされていた[Tripp 2010]。つまり、ウガンダは東アフリカ、中央アフリカの情勢を安定化させるべく、贈与(もしくは外交的な操作)としての援助が集中する環境に置かれていた。
だが、その援助の集中は国家レベルで援助に依存する体質を作り出していくこととなる。例えばウガンダ、マケレレ大学の研究者アシイムェの指摘によると借款を含む援助による資金は90年代の間において国家予算の28パーセントから42パーセントに上昇し、さらには2002年には52パーセント[32]まで上り詰めたという[Asiimwe 2018]。またウガンダ一国への欧米ドナーからのODAの総額は2010年だけで18億米ドルに上る[OECD 2011]。それらの汲めども汲めども尽きぬような外部からの援助資金の流入(内側で生産されたものでは決してない)、一つの富(ガンダ語ではobugagga)は「カーゴ」と言えるようなもの[33]で、その富の分配を行うのは主に政治家たちの役割であった。そして、こうした援助の集中と依存は、必然的にウガンダ国内において深刻な汚職を生みだしていく。
前章で述べたように政治家たちによる汚職は軍部を中心に政権内部にも拡がっていき(もしくはメディアなどによって徐々に明らかにされ)、2000年代半ばには国際ドナーからの開発プロジェクトの資金が政治家たちによって半ばおおやけに遣いこみがなされていった。それらは特にムセヴェニ大統領の側近(内戦時でもNRAで指揮を執ったものや実弟のサリム・サリーらが含まれる)によるものである[c.f. Tripp 2010;Asiimwe 2013]。あるウガンダ国内での雑誌記事に[Independent 2010-12-10]よると、ウガンダで海外からの援助金額が汚職によって流用された金額は、総額7億米ドルとなる(主な汚職事件については下記の表4-1を参照)。2007年には、ウガンダで北部において大規模な復興プロジェクトであるPRDP (Peace, Recovery, Development Programme)が立ち上がったが、その5年後の2012年の国家監査局の報告によると、このプロジェクトにおいて2千450万米ドル(日本円にすると25億円ほど)が首相官邸主導の汚職によって失われた[Aljazeela 2012]。また、世界銀行もウガンダの援助資金についての汚職状況については調査に乗り出し、一年に3億米ドルが不正に失われていることを報告した。だが、そうしたおおやけの不正が援助ドナー側から指摘され、援助の引き上げも警告されたにもかかわらず、総額としての援助額が下がることはなかったという[Asiimwe 2018: 147]。
この場合、富を司るアクターは、その富を然るべき場所に導き入れ、然るべき場所に分配するという意味である。そして、富を処理するものには、富に付随するものが約束される。 富裕者はガンダ語で「ムガッガ mugagga」[34]と訳される。また、こうした分配を取り仕切るものは「ムサッジャ・ムネネ musajja munene」(英語に直訳するとBig manの意)であり、この二つはえてして同じものを意味する。富裕者(ムガッガ)は鷹揚に人々に与え続ける義務があり、与えることは然るべきものを然るべき場所に据え置くことができる者、つまり権力を持つ者(ムサッジャ・ムネネ)の役割である[35]。だが、だからといって、より多く関係性の束を束ねている者[36]は必然的にムガッガであるかというと、ウガンダの人々はそうではないという。かれらに言わせると、政治家でも引退した後に大きな家(ennyunba en’nene)が建てられないと、その男はムサッジャ・ムネネではないのだと。つまりそうした関係性を持ち、自らにも身近な人々にも恩恵を与え続けるものが、ムサッッジャ・ムネネであり、彼は必然的にムガッガである。富を流通させるのが、ムガッガ/ムサッジャ・ムネネの役割であるが、ではその富はどのようにもたらされるのか。
(事情により中略)
そして、そのような汚職が村落内での経済基盤の一部としてある[40]。関わっていた小規模プロジェクトにおいて学校がまだ建築されただけでも開発プロジェクトの存在意義自体はまだそれほどに危機的なものでない。だが、地方をある機会に回った際に、ディストリクトをまたがる国道一本分の予算が汚職によってなくなったという話も現地で聞くこともあった[41]。またある日本人の医師が2009年に北部のモルレム[42]という町において障碍者の支援を目的とした地元組織(CBO[43])の設立を行い、一年分の運営資金をCBOの会計担当のものに預けたところ、数カ月を境にしてCBOの活動は止まり、その後にその会計は2011年の選挙に立候補することを宣言し、CBOの資金のほとんどがその選挙運動(前章で説明したような支援者への生活必需品など)に費やされたということが、後にCBOの活動に関わっていたものから報告された。CBOの支援を受けていたものも、元会計担当のものが村での選挙活動によって裨益を受けたものたちからの中傷を避けるために、公けの場での訴えは避けられていたことも筆者に報告された[44]。
このように以前は植民地政府が代表していた富(カーゴ)と権力は、ポストコロニアルの現在においては「開発」に据え代えられ、そこで派生していくパトロン‐クライアント関係は国家の枠組みの中で収まりつつも、慣習法などに支えられた伝統的権力は象徴資本の一つとして単なる機会依存的なものに堕していく。その意味でポストコロニアル的な現在においては、マムダニの描く権力構造が二層化した分枝国家は実質的に存在しない。公的なものとしての富と権力へのアクセスは、開発というもっと細かく、好機的に分節化されていく構造の中で、統治され、主体として期待される人々によって捉えられていくのである。つまり従来に考えられていたパトロン‐クライアント関係における「民族」集団としての結束性coherence(つまり人々の「社会的なもの」)は開発によって瓦解され、組み替えられた状態の中にある。伝統的で(マムダニの述べる)分枝的な主体である「民族」は、植民地期からポストコロニアルの現在において、別種のものとしてある。
3.社会的なものをめぐって——内戦後のウガンダの二つの社会の埋葬儀礼
(1)アフリカにおける社会的なもの
ここまで述べたこととして、「開発」という政治的なものと社会的なものを結びつけあわせる事象に対して、開発論者に対してやや否定的な事例を多くあげることとなった。このような論調を、アフリカの文脈に、もし欧米的な開発政策のあり方や一種の市民性(シティズンシップ)を適用した場合にどのような議論の混乱が生まれるかという一つの反例であり、必ずしもこの章での主題となっている政治的なもの(いいかえると国家において「国民」として互いに結び合わせるもの)と社会的なもの(「市民」として互いに結び合わせるもの)の共同性や公共性、つまりアフリカにおける共同体のあり方を(倫理的に)否定するものではない。例えば、西はエチオピアのグラゲという一民族グループが道路建設という公共事業に寄与することで、エチオピアの南部地域発展に貢献した事例を挙げながら、アフリカにおける「オルタナティヴな公共圏」が構築されたことを主張している[西 2009]。
ただ筆者は西の情熱的なアフリカ独自の公共性への信頼に共感を覚えながらも、アフリカの「開発」や近代が西や他の論者たち(カスファーや鍋島ら)が述べるような市民社会などの成立とともに、欧米的な民主主義による「国民国家」にデフォルト化された筋道で進むものとは考えない。まず、すでにバヤールが、そして後に別の角度からシャバルとダローらが指摘したように、アフリカ国家にはヨーロッパ近代諸国が辿った別種の近代を抱え込み、われわれが民主主義制度の前提としている市民社会が、必ずしもアフリカの国家においてわれわれが想定するように機能するとは思えないことである[Bayart 2009;Chabal & Daloz 1999]。「開発」のプロジェクト群(外側から植え付けられた公共性)が実際に内部の論理で食い破られ、別種のものへと変化されていく状況を、ウガンダの事例ですでに前節で述べたが、西の主張する公共性は、貧困というものに抗するかたちで、時には国家の主導する「開発」や近代に応じたものになったとしても、常にそれらに意図される「開発的主体」と合致するものとは限らないであろう[52]。西が例示した国家を経由しない、グラゲの人々による道路建設の「開発」は、その意味で特殊なケースともいえ、国民国家による近代推進を考える人々の希望的な観測が、アフリカの一民族に投影された事例だといえるのではないだろうか。
それよりも、上掲の書で西はその解釈を「一面的に過ぎる」と退けたものの[西 2009:118]、「開発」や国家による近代化がはらむ公共性のねじれの問題(西の議論でいうとリベラリズムにおける多元性の問題[西 2009:38-40])は、J.ファーガソンが『反政治機械』で述べたレソトのケースの方がより説得的であるように思われる[2020=1994]。その著書の中でファーガソンはレソトにおける「開発」の状況を分析し、いかに現状とかけ離れた社会分析が開発言説の中でなされ、またその上でCIDA(カナダ国際開発庁)などの支援を受けた、家畜市場化の推進プロジェクトが、さまざまな官僚政治の思惑の中で換骨奪胎され、最終的に失敗として結論付けられる過程を描いた。
ファーガソンは「開発」をフーコーの議論[フーコー 1977]に寄せながら、それ自体が自律的な「装置」だと考える。監獄や学校、病院などのように近代の中で生み出された制度は、半ば一つの「機械(マシーン)」となるようにして、本来の目的と異なる結果を生み出していく。犯罪者を更生する施設である監獄は、犯罪者たちにスティグマを植え付け、そのネットワークを形成させる土壌となり、患者の病を癒す空間である病院は、患者の苦痛を観察し、非人間的に分析をしていく。そして時には病院を超えて衛生の観念から人々の生を管理し、統制していく機関に連結していく。その議論を踏まえたうえでファーガソン政治的な状況を「脱政治化」(政治的なものでないと否定する言説を作り出す)しながら、官僚的な機構がプロジェクトなどのモノやカネの介入を通して、国家の領域内に拡がっていき、国家の権力を敷衍させていくものとしてある。これをファーガソンは「開発」による「国権化 etatization」と述べている。
現代のウガンダでファーガソンのこの視点を適用した場合、明らかになるのは、「開発」を通して、国民全体が「国権化」の恩恵を受けつつも、国家に対しての信頼をほとんど失っている状況であろう。それは官僚たちの遣い込みのみならず、ファーガソンのレソトでのプロジェクトの事例(70年代末から80年代)と異なり、ウガンダでは中央部での内戦が収まった90年代以降、様々なNGOや民間の資金(前節のモルレムや「アチョリ王国」の例で見たように個人レベルでのCBOへの寄付や活動も含まれる)が国家を経由せずに村落に流れ込み、一種の開発バブルのような状況が繰り広げられた。その意味で「開発」は草の根レベルにて浸潤し、「開発」にまつわる村落での「私的」な経済的な分配がなされていくのだが、それらはポストコロニアル・エリートたちによる偏りが前提となるものであった。つまり国家の行政的な権力が「開発」の中で「脱政治化」されていく中で、NGOなどの草の根への経済的支援もあいまって、パトロン‐クライアント関係など、非常に限定された私的な欲望に基づいた政治活動による「公的」な空間が組み上げられていったのである。これはある種、「開発」の私有化 privatizationともいうべきものともいえ、「開発」によって西が述べるアフリカの公共圏ともいうべき社会空間が空洞化されていった過程でもあった。
(2)ウガンダの二つの埋葬儀礼
ここで、筆者が強調しておきたい点は、「政治的なもの」なり「社会的なもの」なりの議論が、アフリカにおいて「コミュニティ開発論」、「内発的開発論」、「市民社会論」[53]にどのように適用できるのかを考えるのであれば、それはアフリカにおいてどのようなかたちをとっているのか、そしてどのような特徴を持ち、われわれはそこからどのようなことを学ぶことができるのかについて考察を進めていく必要があるということである。ただ、この場合に注意せねばならないのは、アフリカにおける「社会的なもの」を根源的にどのようなものとして捉えるかだ。筆者が先述した、開発における政治的なものと社会的なものとの統合(パトロン‐クライアント関係とそれにまつわる再分配の構造)は、近代の枠組内で捉えられ、そこにおける社会は「国民国家」への統合の試みの一部としてあった。だがその反面、現代のウガンダにおいて、国家は人々の信頼を勝ち得た「組織(アクター)」では必ずしもなく、人々が想像する「社会」は簡単に「国民‐国家」と直結しないものとしてある。そのために、信頼すべき共同体の象徴として王や首長が用いられたとしても、大統領の肖像が人々を(経済的に、治安的に)護るものとしてはともかくとして、お互いを結び合わせるものとして掲げられるわけではない。では、ウガンダにおいて「社会的なもの the social」(もしくは公共性)は存在しないのかどうか。
幸いなことに、ウガンダにおける「社会的なもの」を考察するのに適当な先行研究が二点ある。一つはウガンダ東部のテソ社会を例に取ったものであり、もう一つは中央部のガンダ社会を例に取ったものだ。下記ではその二つの事例を二つの民族誌的記述を追いながら見ていこう。
第一に取り上げるのはテソの事例で、イギリスの人類学者のベン・ジョーンズによって書かれた 『国家を越えるウガンダの地域 Beyond the State in Rural Uganda』という民族誌からのものである。ここでジョーンズはテソ地域での内戦後の復興(ちなみにテソでのウガンダの内戦はムセヴェニが政権を取った1986年に終了したといえず、実際に90年代後半から2000年代の初頭までさしかかる歴史を持つ)が、必ずしも地域の復興は「国家」を通じてなされたとは言えず、むしろ国家の手を離れて、葬儀結社ともいうべき教会などの組織によってなされたことを述べている。
ジョーンズは社会的なものという言葉は用いておらず、また「開発」という言葉に対しても、ファーガソンの『反政治機械』[ファーガソン 2020=1990]などの研究を鑑みながら、慎重にテソ社会の現状へアプローチしているが、彼が着目するのは、実際に内戦という社会秩序をすべて破壊し尽くしてしまう経験が存在したにもかかわらず、テソの人々の間にはある種の「社会的なもの」が存在し、彼らの社会秩序の維持、およびその後の復興活動に、埋葬のための組織が(ここではジョーンズは埋葬と葬儀を分けている)、それが非常に影響を与えたと論じている[Jones 2009]。
ここで重要なのは、ナイロート社会における年齢組などの秩序は、内戦によって覆され、多くの長老ともいうべき年輩の人々が若者に殺されるという状況だったわけだが、その後にそうしたモラル・ハザードを改めて否定し、日常に戻す契機が「埋葬」であったというのが彼の議論の一つにあることだ。
ジョーンズはテソ社会において、何者かの死を悼み、その死を弔う行為が人々の間に記憶の共有として実践されることが、カトリック、英国系ウガンダ教会、およびボーンアゲインの諸教会に共通したものとしてあり、そして埋葬のための組織と教会とが共同して、必要とされる資金の運営を行い、結果として社会性を保って、村の倫理的な秩序を再建していったと論じる。つまり、死者に対する悲しみと同時に、経済的な協力、一つの再分配的な経済体制の設立が、余りに悲惨な内戦から回復するために必要な役割を果たしたのだというのである。
ジョーンズが主張するもう一つの点は、これらの「復興」は徹頭徹尾、国を離れて行われたということである。ある意味、テソ地域のように、現ムセヴェニ政権に対して不信感を抱かざるをえないような場所では無理もないが、ここでは社会と国家は切り離されて、そして切り離された結果として、社会的なものの機能が働いていると言える。そしてその契機は、内戦による死者を悼む行為からなのである。
もう一つの事例はウガンダの中央部、ガンダ社会のものだ。これはデンマーク出身の文化人類学者であるマイケル・カールストロムが報告した事例である。カールストロムが論じるのはガンダにおけるリニージを基にしたクラン組織と、それを形成する原動力となっているオルンベ olumbe という儀礼である。ガンダは共通の祖先を持つとする親族組織であるエチカ(単数形ekika /複数形ebika)という52のクラン集団を抱えており、それぞれにエチカを管轄する上位組織のアカソリャ(akasolya)が存在する。アカソリャをまたクラン集団がそれぞれに階層的に形成され、それぞれ各世帯(エニュンバ enyumba)まで降りていく社会体系となっている[図4-2参照]。クランのトップに立つクラン・チーフはガンダの王であるカバカを支える内閣府の主要なメンバーとなる[54]。
このようなガンダ社会の高度な組織性とオルンベの儀礼による共同性(ここでクラン集団内の饗応性 conviviality[55] [ニャムンジョ 2016]と呼んでもよいであろう)とともに、カールストロムが指摘するのは、国家から独立した「開発」に貢献する共同社会である。ジョーンズと同様に社会的なものという言葉を用いていないものの、ここで想起されるのは、欧米社会的な発想から離れた、アフリカにおける社会的なものの一つの姿といえる。この二つの儀式の共通点として、このジョーンズの紹介するテソの埋葬儀礼と教会組織、そしてカールストロムの描くガンダの葬送儀礼のオルンベとクラン集団は、ともに死者を弔うことを形の上で目的としている。死にまつわる情動から社会的なものを成型していくことはこの二つの事例でも共通する。このアフリカにおける「社会的なもの」を考える意味において、アフリカの人々の「情動」の意義は非常に重要だ[56]。ウガンダの二つの社会での「社会的なもの」を強く打ち出すような共同性は、失われたものを社会的に認識し、それを取り戻す情動の表れとして、儀礼が、そして共同性が築かれていっており、そしてそれらは(ジョーンズとカールストロムの主張に則れば)二つとも国家とは独立して(場合によっては対峙して)存在している。
(3)「主体」の枠組みとしての国家
実のところ、このテソの埋葬とガンダの葬送・継承儀礼の事例は、国家とまったく関係していないのか、またここで想起される共同性がどのようなものなのかということを考えると、必ずしも上の議論が、理想的なアフリカにおける社会的なものの事例として直結していくわけではない。例えば、ガンダの王国とクラン制度だが、これは実のところ、20世紀初頭にイギリス植民地政府が土地制度や税収管理のために、介入してから、いまあるかたちで整備されたものである[Hanson 2003]。またクラン・リーダーたちを束ねるガンダの王カバカは、元来ウガンダの宗主的存在としてイギリス植民地政府から独立後にウガンダの第一代目の大統領として据え置かれ、ガンダ民族の52の各クランから派生したそれぞれの親族組織は、準国家的な存在の中での臣民の集団としても位置づけられる。
またテソの埋葬にしても、その主体がキリスト教会をベースにしていることからもわかるように、キリスト教の宣教は植民地政府の国家政策としてなされ、英国国教会系のウガンダ教会にしても、カトリック教会にしても、またボーンアゲイン教会にしても、近代国家の言説支配から無関係ではいられないものとしてある。フーコーを引用するまでもなく、ウガンダにある教会の言説(毎週日曜に語られる司祭や牧師、説教師たちの言葉)は、首都カンパラにいる司教たちによって束ねられ、それはウガンダ政府との政治的・宗教的な駆け引きとして相互関係的に形成され、従順な主体を求める司牧的な権力として人々に働きかけていく。例えば2014年前後に騒がれたウガンダ国内の反ホモセクシュアル法の成立は、教会の原理主義と政治の相互関係によって生じ、ウガンダの人々をセクシュアル・マイノリティに対峙する、一種の国民として再認識させる議論としてわき上がった[c.f. 森口 2014]。
つまり、臣民か、市民かというはじめの、アフリカの人々の主体性や帰属性を問う疑問に戻ったときに、テソの人々にしても、ガンダの人々にしても、その情動を元にした集団組織の形成や、国際援助の資産を食らい尽くすような「外翻」のあり方は、ある意味で「国家」という外在性や枠組みに依存しているともいえ、アフリカの人々が結果として国家や上位の集団に対して従順な「主体/臣民」としての存在なのか、それとも近代法と資本主義制度の中を自由に行き来する「市民」なのかという問いを、それはいまだに問いかけてくる。その意味でジョーンズもカールストロムも、純粋なアフリカの自律的な社会を探し求め、一種のアフリカニズムも伴って、幻想のアフリカ社会を描きあげてしまったともいえる[57]。
もちろん、アフリカにおけるシティズンシップ(それにまつわる人々の帰属性)や、社会的なものを考える際に、欧米的に国家との関係で築き上げられていく自己生成のあり方を考えるのは禁物である。また実際にジョーンズの描くテソ社会も、カールストロムの描くガンダ社会も、内戦の経験や政府軍との対立から、国家からの自律性を保っていないわけでもない。すでに先述したように、それぞれの事例において、各集団・組織の起源が近代国家と密接に関わっているにもかかわらず、なぜこうも独立したエイジェンシーのように振る舞うのかというのは、アフリカにおける人々の帰属性や社会的なものへの問いとして成り立つだろう。そして儀礼など共同体を担保する「社会的なもの」を共有する集団が、場合によっては国家に抗するレジスタンス的な集団として認識される状況について考えることも必要である。
いままで述べた多くの問いに対しての、十分な答えになるかどうかわからないが、先にマムダニの議論を引きながら、アフリカにおける「民族」が、国家に統合される国民としての市民という存在でもなく、そして国家以前に「臣民」を包摂する存在であると述べた。実のところ、アフリカの「民族」の概念が「社会的なもの」を想像するのにミスリーディングしてしまう状況であるのだが、その「民族」の帰属のあり方を考えるために、カンパラのナムウォンゴ・スラムの人々の事例を引くことで、臣民と市民、そして政治的なものと社会的なものの議論を締めくくりたい。
4.柔軟なアフリカン・シティズンシップ——多層的で可塑的な自己へ
(1)民族、市民、臣民① コンジョ‐ナンデの二重性・多重性
他の例としてナンデ出身のジステ(2015年の調査当時27歳)がいる。彼は2014年12月から2016年3月まで1年以上の間、夜間の留守と食事の用意などを行う代わり、ナムウォンゴのカンバスの家に居候を行っていた。彼によると、11歳までコンゴ側のナンデの村落(カシンディ Kasindi 近郊)にて過ごし、その後に父方の叔父(キセメンティ[62]のスーパーマーケットの会計をしていたという)を頼りにウガンダ、カンパラに移住し、カンパラの学校で中等教育(Senior 1~4)を修めた。母語のコンジョ(ナンデ)語以外に、フランス語、英語、コンゴ・スワヒリ、ガンダ語を話すことができる。カンバスとジステは同郷(カシンディ‐ブウェラ間の村落)であるが、二人にその国籍を尋ねたところ、ウガンダとコンゴの二つの国籍を保持していることを認めた。特に、近年において選挙前に選挙権に伴う国籍の仮登録(正確にはNRMのメンバーカード[63]の交付)は容易で、カンバス曰く「各国が自らの政権へ投票を促すために、われわれにカードを与える」という。そして場合によっては南スーダンやケニアなど他の隣国に「カード(国籍)を得ることは(選挙前には)できる」と述べていた(括弧内は筆者による補足)。もちろん、それぞれの国で市民カード(国籍)を得ることが可能かどうかは、その時の政治状況にもよる。だがジステはともかく、カンバスはナイロート系の言語(強い訛りがあることは否めないものの)を用い、現時点(2014年から現在)での内縁の妻として南スーダンの女性と関係を持っていることから、言語能力と関係性を辿りながら、南スーダンやケニアでの市民権を得ることは不可能ではないと多くの人々は(少なくともカンバスを中心としてナムウォンゴのコンゴ系移民)は考えている。そのために、先のエマニュエルの事例と併せて考えると、国民国家に属する「市民」や「国民」というカテゴリーは、ウガンダのコンジョ、およびコンゴのナンデの人々にとって、臨機応変に対応される表面的な帰属に過ぎないものと考えられるのである。
(2)民族、市民、臣民② 「ルワンダ系・コンゴ系移民」という見えざるマジョリティ
ナムウォンゴのコンジョ‐ナンデ系ウガンダ人の事例を前節では取り上げ、その帰属性について論じたが、ナムウォンゴでのコンゴ系移民の情況を鑑みるならともかく、ウガンダ全体の「国民性」を再考するまでには、あまりに少数の事例を代表的なものとして扱っているのではないかという疑問は、当然ながら提起されるであろう。その疑問に対し、ウガンダの下層部における大多数の人々が移民/難民を出自としている状況を本節では指摘してきたい。なお本節で示す政治的・社会的文脈のため、その数を確固とした統計で示すことは部分的にしかできないが、ルワンダ系移民とコンゴ系移民の存在が、どのようにウガンダの国民の「見えざるマジョリティ」であるのかについて説明していこう。
まず、ウガンダにおける難民の受け入れ人口と、全体の人口との対比から見ていこう。国連機関(世銀・UNHCR)の発表によるここ6年(2014~2020年)のウガンダ全体の人口推移と難民人口の推移は以下のようにまとめられる。
だが、こうしたウガンダ政府とUNHCRが管理する「定着難民」以外に、難民キャンプを経由せず(もしくはそこから抜け出して)ウガンダ、およびカンパラに定着する「自主的定着難民 self-settled refugees」が別に存在することを指摘する必要がある。それは上記のように公表された難民や定着難民の数字を大きく上回ると予想される。例えば、1970代から1980年初頭のザンビアの事例だが、ハンセンはザンビアにおけるアンゴラ難民の自主的定着難民の数を、政府が公表した難民数より4~7倍の数字であることを指摘している[Hansen 1982]。ハンセンの研究では、難民の多くがキャンプ外での自律的な生業活動、経済活動を望み、そのことからザンビアの北西部の農村における自主的な難民集落を形成することを報告した。ではウガンダではどうだろうか。ハンセンの述べる報告された難民数の4~7倍の自主的定着難民の数字は、ウガンダ国内ではどこまで当てはまるだろうか。
ちなみにウガンダにおいては、1930年代から60年代におけるウガンダの綿花およびコーヒー産業の興隆から多くの出稼ぎ労働者がルワンダ、およびブルンディ(当時の名称ではルアンダ、ウルンディ)から流入した。1950年、および1951年のリチャーズらの調査によれば、ブガンダ王国の農村部(ブシロ Busiro、チャグェ Kyagwe、ブッドゥBuddu)において、全体の30~70%以上の住民がブガンダ地域外からの移民によって成り立っており[Richards 1954:13]、またルワンダ・ブルンディ出自がガンダの村落内でも20%以上を占める状態であったことを報告している[Powesland 1954]。かつ1960年代前後から、ルワンダにおけるいわゆる「社会革命」によって、多数派のフトゥ系の政権奪取によるトゥチ系住民の迫害などが始まり、特に1972年から1973年の間の政変において、多くのトゥチ系住民が難民としてウガンダ、およびコンゴ(ザイール)に避難をした[Mamdani 2001, 2002;武内 2006]。その際、難民キャンプ(イシンジロ、ナキヴァレ難民キャンプ、およびホイマ、チャングワリ難民キャンプ[68])にて長期にウガンダに在住し、半ばウガンダに帰化したかたちで教育を受け、成人を迎えたルワンダ系移民の多くは1981年、ムセヴェニのNRAによるゲリラ闘争に参加し、NRAの主要メンバーとなる。ある報告では1986年時のNRAのカンパラ解放時において、ルワンダ系の人々が占める割合は25%にもなったという[Mamdani 2001:166-170]。その後、かれら(女性兵も含まれていた)の多くが後のカガメ率いるRPF (Rwandan Patriotic Front ルワンダ愛国戦線)に加わり、1994年に政権奪回の主力となったが、反面、ウガンダ軍部や政権内に留まるものも多くいた[69]。
現在においても、1994年のルワンダ虐殺、その後のコンゴ国境地帯における度重なる内戦などから、ルワンダ系移民の多くがウガンダ在住の親族を辿り、難民キャンプでなく一種の自主的定着難民、もしくは移民としてウガンダに定住している人々が数多くいることがウガンダ国内では知られている。だが、その数字は必ずしも明らかではない。マムダニは上記のようなウガンダに帰化した人々や、ルワンダ系移民の二世、三世、そしてルワンダ系の自主的定着難民、そして難民を、①ルワンダ系ウガンダ国民 nationals、 ②ルワンダ系移民 migrants、③ルワンダ難民 Refugees の三つに分け、1990年前後におけるその人口を明確にしようとしているが、ルワンダ系住民をどのように区分するかなど複雑な要因があり、正確な数字を出すことに成功していない。例えば1990年の際に50万人から60万人ものルワンダからの難民がアフリカ大湖地域の各国(ウガンダ、ザイール、タンザニア、ブルンディ)に流出したはずだが[Prunier 1995]、1990年代初頭にUNHCRで記録された難民数は上記の4カ国における総勢がその3分の2(383,000人)ほどであり、その他(117,000人)の難民がどこに行ったのかは不明である[Mamdani 2001:161]。
そのような歴史的経緯も踏まえて、1990年時のルワンダ系ウガンダ人[70](主にルワンダ語話者)の人口を、マムダニは130万人とし、当時のウガンダ国内(おおよそ1600万人)での、ガンダ、テソ、アンコレ、ソガ、チガに次ぐ第6番目の人口(約8%)を抱える主要な民族集団の一つとして数えている[Mamdani 2001:161]。だが、筆者の予想としてはこの数字はまだ少なく見積もられたものであり、場合によってはガンダ(2012年時556万人、ウガンダ全体の16.5%)と並ぶ最大の民族として考慮されねばならないと考える。
ルワンダ系住民、および移民/難民の人口を明確な数字として認識できない理由としては、国境管理や人口調査に伴う統計の問題[71]だけではない。前節のコンジョとナンデの例で見たように、国境をまたいだ結果、同じ民族が別民族として認識される例がルワンダ系移民の間でも存在する。ウガンダ南西部のルワンダ国境付近に位置するキソロ周辺のフンビラである。実際に調査中でもナムウォンゴ(および他のカンパラ市内において)で知り合った自称フンビラ人から、その実ルワンダ系移民/難民であることを後に知らされることがよくあった。かれらがフンビラ出自を名乗る理由として、自らの出自がウガンダ国内であること、つまりウガンダの正当な市民権を持つことを主張するためであったことがあげられる。
またルワンダ系トゥチの集団は、アンコレのヒマと類似性が高く、また植民地期からの人口の移動もあり、アンコレと偽称、もしくは帰化した結果として「アンコレ」の出自を名乗ることが多いとされる[72]。これはチガにも当てはまり、アンコレ、チガの名前を持つものの、出自がルワンダであることも、カンパラ市内の日常においては注意せねばならないことの一つであった。
もっともルワンダ系移民からの帰化/同化が進んだ状況はブガンダの地域であろう。先述したように1930年代からのウガンダ国内における工業化、またウガンダ中央部(ブガンダ王国領内)における農地の綿花やコーヒーなどのプランテーション化によって、多くの賃労働が生まれ、ルワンダ、ブルンディからの出稼ぎ労働者が急増した[Fortt 1954]。土地なし農民としてそこに住み込むルワンダ系移民は、ウガンダにおいて生計基盤を着々と築き上げていった。
結論——多層的な帰属性と可塑的な自己成型
このようなウガンダの人々(スラムに住む周縁的な人々でありながらも、隠れたマジョリティ)にとって、民族や帰属性の一つであるシティズンシップは、二つ以上の民族や国家、重層性の中にあり、一つの「民族」に固定された「主体/臣民」でもなく、そして一つの国家に固定された「市民」でもない存在としてある。
だが、だからといって、それらの「民族」(もしくは「国家」)が社会的意味を持たないわけではない。逆に「フィクション」としての「民族」や「国家」の日常を、場合によって生き分けねばならないかれらにとって、そのフィクションは非常に重要な意味を持つ[Parkin 1969; 松田 1999]。そして、そのフィクション(出自・宗教)を支える情動(死者を悼むことによる共同性や信仰)によって、その場に応じてのかれらの存在が社会の中で再認識/承認されていくこともまた確かであろう[Englund & Nyamnjoh 2004]。
本章の冒頭において、ここでの目的をウガンダにおける人々の「国家」や「民族」への帰属性がどのようなものかをまず明らかにすることと述べた。またそれと同時に、人々が自らの帰属性を求める中で、どのような「社会的なもの」がウガンダの(特に首都カンパラの)人々によって求められているか、そしてその「社会的なもの」が前章まで問われていた「政治的なもの」とどのように重なり、どのように重ならないのかについての疑問を呈した。 本章ではまずブガンダ王カバカのキセッカ市場への訪問と、それを無償の労働によって歓待する人々/臣民の様子をまず描きながら、それと対比させるかたちで、ウガンダ共和国大統領の(金銭的な汚職)政治に順応する市民のあり方を描いた。王権をめぐる「社会的なもの」は、共和国をめぐる選挙と開発の「政治的なもの」よりも基層的なものとして位置づけられる。だがその両者をめぐって人々は「民族」における帰属性を状況に応じて取捨選択し、複数で多層的な帰属性を持つ「臣民」でもあり、「市民」でもある。特に開発におけるポストコロニアル状況におけるパトロン‐クライアント関係は、国家のなかでの「民族」の再編に寄与しつつも、マムダニの述べるような分枝としての「民族」の主体や公共性を瓦解させていく。国民国家の共同体性からは距離をとるかたちで、テソの埋葬儀礼やガンダのオルンベなど(他者にまつわる情動にからみながら)共同性が担保される試みは局地的にはなされているものの、最終的には政治的な状況に組み込まれていく可能性も否定できないことも指摘した。
だが、ウガンダにおける「市民」や「臣民」自体が、欧米的な領域性を伴った「国民国家」の主権の概念から考えるのでは、先に述べた問いに対しては決して答えが出せない。なぜなら、冒頭に出したナムウォンゴのエマニュエルの事例で見るように、自由に国家間や民族間を頻繁に移動する主体には、領土に固定された近代的な「市民」や「臣民」の概念は適用できないからである。またエマニュエルの事例の延長として、コンジョ‐ナンデの国家間の移動と市民性の移動、またルワンダ・コンゴ系移民に見るような、多重的・多層的な呼称と帰属性を伴った市民性や帰属性が、ウガンダの国家における「国民」、「市民」、「民族」のカテゴリーを揺るがせる。
その意味で、ウガンダにおける「社会的なもの」および「政治的なもの」を語るとき、国家、民族、歴史、開発、紛争、宗教、儀礼、情動(悲しみ、恐怖、欲望)、そしてそれに伴う「移動 mobility」(これ自体も交通手段が発達した近代ならではのものでもある)など多くのエイジェンシー(行為主体性)が、ウガンダの人々を欧米の市民性とは異なる自由無碍な存在にならしめていることが見てとれる。このウガンダの多層的な帰属性に伴うある種変幻自在な自己のあり方を、筆者は「可塑的な自己成型 plastic self-fashionning」と呼びたい[75]。それはカメルーン出身の人類学者であるニャムンジョがエイモス・チュツオーラの小説『やし酒飲み』の主人公の造形を指して「柔軟で流動的な現実」を捉えていることを述べながら、「身近なやり方であろうと馴染みのないやり方であろうと、自由に身体の形を変え、同時にさまざまな多様な姿を示すことができる能力」を持つ主人公の姿でもある[Nyamnjoh 2015: 12]。そしてニャムンジョはチュツオーラの『やし酒飲み』の主人公が、近代におけるアフリカの人々の現実を反映させていることを述べ、「移動」と「饗応性 conviviality」がそこに表現されていることもまた指摘する。そして移動と饗応性は彼曰く「アフリカ」という場において、アフリカの人々が共有する「市民」としての経験でもある[ニャムンジョ 2018]。
アフリカの「市民」は、外在化された情動と移動性とに偏在し、表れるその生命力は、ある時にはレジリエンスとして、そしてある時にはレジスタンスとして立ち現れる。その主体は、情動に則して、かたちを変える。アモルファス(無形)であるゆえに、可塑性の高い主体。だがその可塑性は、必ずしも国家に(場合によっては「民族」にも)接合せず、国家に対して「臣民」でも「市民」でもないものとして、自律性を保っている。アフリカの主体性と市民性は国家の制度によって形成されていくものでは決してなく(つまり臣民化‐主体化というプロセスにはなく)、国家や民族などのフィクションに則してその主体性が(その状況に応じて)そこに当てはまるように自己成型されるものとしてある。そこにアフリカン・シティズンシップの本質的なしぶとさ、しなやかさがあると言えよう。
だが、この馴致しがたいアフリカの市民性を、どのように「国民‐国家」の枠組みで飼いならすかは現代アフリカの統治者たちの悩ましい課題であったはずである。次章では、ウガンダの1986年以降のムセヴェニとNRMの治世下におけるウガンダの地方分権化をテーマに、ブガンダ王国とウガンダ共和国がどのように共生関係を結んでいったのかについて議論していきたい。
註
[6] ここで、この民族の集団性の前提を問う、政治人類学の分析モデルとして筆者が念頭に置いているのはリーチの『高地ビルマの政治体系』である[リーチ 1987]。
[7] 2010年10月マケレレ大学構内 Club 5での私信。
[8] 外翻extraversionとはバヤールが現代アフリカ国家の特徴である「胃袋の政治」を説明するために用いた概念である。従来、恵まれた自然環境にあるアフリカにおいて、人々は頻繁に移動し、移動先の資源を利用することで、その生存の糧としてきた。そのような外にある資源を容易に利用するその行動パターンをバヤールは外翻と呼び、現代のアフリカ国家で見られる外部の資本や援助を、自らの生活や利得のために容易に食い尽くしてしまう汚職や横領などにも繋がるものとして位置づけた。筆者としては「外翻」をブルデューのいうはハビトゥス(日常的反復性のある行為)として位置づけたいが[ブルデュー 1988, 1990]、バヤールの議論は説得力があるものの、民族誌学的な観察に基づいた厳密さに欠け、またブルデューのハビトゥスは、その循環論的な理論構造についてさまざまな批判にさらされてもいる[e.g. 倉島 2000;田邊 2002]。ここでは外翻とハビトゥスの近接性を示唆するに留めておきたい
[9] パトロン的行為を行うことで、政治家は富や財を民衆的に魅惑的に誇示し、それをクライアントの立場にいる人々が模倣することで、パトロン‐クライアント的な行為実践は連鎖していく。そのためにパトロンは政治的・経済的な欲望を刺激するエイジェンシーとしても、社会的な役割を果たす[ラトゥール 2019]。
[10] 新家産制国家とは「フォーマルには『非人格化』された官僚制度が」,パトロン‐クライアント関係と結びつくことで「実質的には『人格的な関係』によって運営されている」国家制度を指す[佐藤 2014:249]。
[11] このように王と王妃夫妻をともに応接間に飾る家は多いのだが、筆者が多くのウガンダ人の家を訪れた経験では、ムセヴェニ大統領の写真を置く家はあるものの、その夫人ジャネット(Janet Museveniムセヴェニ政権の閣僚の一人である)を並べて飾る家庭は、いまだ(筆者の経験上では)見たことはない。
[12] アメリカ合衆国やフランス共和国、そしてドイツ民主共和国はその意味で「王室」の存在しない近代国家だが、アメリカでは国旗がその象徴的な役割を果たし、代象する役割を持っている。またアメリカ、フランスの大統領就任における儀礼性の高さは、王室がなく大統領の座がその役割を担っている状況であるだろう。
[13] この「ねじれ」はもちろん、ウガンダから見て海外の状況が「ねじれ」て見えるような相対的なものである。アフリカの近代国家が欧米の近代国家と比較して、「欠損」の状態にあるように見えること自体が一つのオリエンタリズムとして指摘できよう[Chabal & Daloz 1999]。
[14] この「文化的権限」と「政治的権限」を分離させることは、「政教分離」の一つとして近代国家の政治規範として言及されるが、後述するように簡単に切り分けられるものではない。政治(およびそれにまつわる儀礼的な事柄)には常に文化的な権限が附随し、そのことによって政治行為が十全に成し遂げられることになる。
[15] もちろん、ヨーロッパ諸国も現実的に単一民族の国家であることは決してなく、実際には複数の民族が集合し、主権を単一とした「国民国家」として成立している。特に「国民」の概念は、立石と篠原によれば「ラテン語の natio を語源」とし、「中世までは生まれを同じくする人々、つまり言語(さらに文化)を同じくする人々というゆるやかな概念であったが、近世に入ってユダヤ人全体を指すことなどを例外とすれば、一定の『領域』と結びついて語られる概念」として変化してきている[立石・篠原 2009:4]。
[16] 第二章の註4を参照。ガンダは国内の最大民族としてウガンダの人口の16.5%を占めているとされる[National Census 2014]。
[17] 隣国のルワンダにおける1994年の虐殺事件(とそれに関連する報道や映画製作など)もあり、ツチ Tutsi(複数形 Batutsi /単数形 Mututsi)とフトゥ Hutu(複数形 Bahutu /単数形 Muhutu)の民族対立は有名であるが、同じような民族対立がルワンダの虐殺・内戦からコンゴ(民主共和国)に飛び火していることについてはあまり知られていない。コンゴ側におけるツチ系の集団をムレンゲ Mulenge (複数形 Banyamulenge/単数形 Munyamulenge)、フトゥ系の集団をブィシャ Bwisha(複数形 Banyabwisha /単数形 Munyabwisha)と呼ばれ、90年代からコンゴ東部において相互間の深刻な対立が続いていることから(Prunier 2009)、筆者の調査したカンパラのナムウォンゴ・スラムでは多くのムレンゲ、ブィシャの人々がコンゴから移住してきていた。
[18] 「分枝国家(bifurcated state)」の「分枝」の訳は落合[2003]の訳出に従っている。他に「分裂、分断、二重」などの意も含まれていることに注意すべき訳ではある。
[19] CODESRIA: Council for the Development of Social Science Research in Africa. 「アフリカにおける開発と社会科学調査のための機関」本部はセネガル、ダカールにあり、アフリカ全体の社会科学研究に寄与するために、オランダ、セネガル、フォード財団など複数の団体の資金によって1973年に設立され、研究機関として活動しているほか、複数の学術誌の発行、また学術書の出版などを行っている。
[20] 中林はその短い論考の中で、人類学者のエリザベス・コルソンやP. H. ガリバーなどの記述を引きながら、次のように述べている。「間接統治である『伝統による統治』というのは、ウェーバー的な伝統的権威の含意である連続や固執とは異なり、実際は融通性が特徴で、それゆえに植民地時代の地方的で、多様な秩序をもった民族的社会の統合が可能だった」[中林 2013:47]。中林はマムダニの指摘をこのアフリカの王国における政治意識の「表の側面」と指摘しながら、裏の側面としての非識字社会における権力の儀礼性に目を向けることを示唆している[中林 2013:51-52]。
[21] 臣民subjectの内的な従順化が進むことで、自発的な「主体 subject」が生まれ、身体の管理や国家、国民社会への服従(軍事への従属)など、「従順な身体 disciplined body」が作り出されていくというのがフーコーの『監獄の誕生』での主要な議論である[フーコー 1977]。
[22] デュルケム、モースからラドクリフ=ブラウンを通して人類学の理論の中で引き継がれてきた「社会的なもの the social」についての議論は膨大なものがあるが、ここでは正村[2018]、厚東[2020]、田中[2006]を踏まえ、「平等や連帯への価値志向」[正村 2018: 44]を含んだ概念とする。
[23] 開発のほかに国民国家を編成させる国家事業として、戦争、福祉、宗教の国家化、災害への対策などがある。
[24] SHARE ―国際協力市民の会―(東京都台東区)に1997~1999年の間、インターン(当時のタイトルとしては「ボランティア・スタッフ」)として所属していた。
[25] フィージビリティ・スタディー feasibility study:プロジェクトの実施可能性に関する調査。当時の日本の民間NGOの規模としては新しい試みであった。
[26] 調査スタッフ4名(高塚政生・手林佳正・江波戸美智子・森口岳)によって1997年10月から12月の二か月間において調査が行われた。その後NGO内において調査に基づいた報告書、およびプロジェクト提案書が作成されたが、残念ながらフィージビリティ・スタディーまで行った日本のNGOはウガンダのプロジェクトを行わずに撤退した。調査までしてプロジェクトを立ち上げなかった理由には当時の日本の民間NGOの財政難が挙げられる。
[27] 多党制を排した与党NRMのみの政治体制。次章で述べるが国際的な非難を浴びて2005年の国民投票での決定を経て、2006年の選挙からは多党制が再導入された。
[28] 90年代にウガンダ中央部(南部)において調査を行ったカールストロムは、当時のウガンダの政治展望への希望的な見解とともに、NRM によって各地方自治体に設置されたLC制度を地方レベルでの市民活動を促す理想的な政治制度として紹介している[Karlström 1999]。
[29] 一橋大学大学院 社会学研究科総合社会科学専攻 社会人類学教室における後期博士課程での現地調査によるもの。なお当時の調査は資金獲得などが諸事情で難しく、学生支援機構、および自費によって実施した。
[30] 在ウガンダ日本大使館草の根・人間の安全保障事業の外部委職員として2008年3月から2010年3月まで二年間、小規模事業案件の審査・立ち上げ・監督・事業後の評価などの業務に携わった。
[31] ここで見られるムセヴェニの支持率上昇は、このテロ事件を機にした治安悪化への怖れと見るのが妥当であろう。つまりムセヴェニとその軍隊のUPDF(ウガンダ国防軍)は大衆にとって治安維持の面で高い評価を得ている。
[32] 人類学者のジョーンズはウガンダの特殊な国家財政のあり方として、1980年代半ばから2000年代半ばまでの20年の間、国家予算の五割が外部からの援助によって成立していたと指摘している[Jones 2009: 6]。
[33] ここではオセアニアにおける「カーゴカルト」を念頭に置いている。「カーゴ」とは富が植民者たちの用いていたカーゴ(積荷)に積まれ、もたらされるという信仰(およびそれに伴う人々の振る舞い)である[ワースレイ 1981]。
[34] 富 wealth は obugagga 。ちなみに農村の文脈では「富裕者」を意味するものは「地主」ムタカ mutaka であり( ettaka は土地を意味する)、ガンダでは伝統的に土地が富を意味していた[Hanson 2003]。そのためムガッガの語が流通し始めたのは資本経済が流通し始めた近代以降のことと思われる。
[35] アフリカの政治学で盛んに議論されている「パトロン‐クライアント関係」とは多少ニュアンスが異なるのだが、それは別途に議論したい。
[36] ガンダ語で政治家を意味する語はなく(宰相 katikiro は該当しない)、英語をガンダ語へと直した Emupii つまりMP, Member of Parliamentとなる。
[37] 「顔の見える」援助としての「草の根・人間の安全保障無償資金」の最も重要なコンセプトである。この場合の「顔の見える」というのは公共建築物として十数年にわたり残り(日本政府からの援助として記憶される)、かつ公共的で経済的な底辺層への裨益に貢献するもの(貧窮者への贈与)として認識されていた。
[38] またプロジェクトにおいて施工された建築物(学校、寄宿舎、病院病棟など)もセメントがかなり薄められて作られたコンクリートのために、すぐひび割れを起こすような出来となっていることが度々みられた。監査において領収書などを精査しても、ごく細かなものが市価の二倍、三倍もの値がつけられ、何かしらの過程で捏造されていることは明らかだったが、その値段に見合った施工の質はプロジェクト実施者である地方自治体やNGOなどの責任者も無関心な状態だった。プロジェクト実施者(自治体、NGOのマネージャー、学校長など)による着服が疑われたが、実際の厳密な監査や施工管理などは、援助の予算だけで難しく、また領収書一枚一枚の確認は年に数十のプロジェクトを抱える当事者には非常に難しい作業としてあるため、監査や施工管理の作業は常に難航した。
[39] 前章でも取り上げた当時NRMの幹事長を務めるムババジ治安大臣のテマンガロ事件は世間では騒がれたが、証拠不十分として告訴されることはなかった。
[40] シェルツのウガンダ中央部における援助事業の内部を描いた民族誌では、イギリスによる植民地時代からある種の援助が日常化し、援助の受け手であるウガンダの人々にとって(キリスト教宣教の影響もあり)神の恵みとして日常的な糧に用いられ、村落・親族内での再分配のリソースとされていることを(やや控えめながらに)指摘している[Scherz 2014:89]。
[41] ムコノからジンジャに向けての道路周辺に住む人々の噂によるもの(2015年8月において聞き取り)。
[42] モルレムMorulemu:アビム・ディストリクト Abim District 内にある人口1000人ほどの規模の町。カトリック教会が20世紀初頭に置かれたことで、それに付属する病院や学校なども設立され、結果として人が集まった土地である。
[43] CBO:Community Based Organisation 地元コミュニティを基盤とした非営利団体を指す。発起などは個人レベルでなされ、NGOと比べて公的な団体としての登録がなされやすい。
[44] 筆者は部分的にこのCBO、CASA(設立者:川西健登氏)の活動に関与していたことも述べておく。実際に設立者の日本人の医師に依頼されて、CBOのコーディネーターから活動報告を受け、その実質的な活動について、助言を与えるという立場だった。だが、この件では、コーディネーターとその兄である元会計担当の資金の遣いこみに伴い、筆者が資金の供給を止めた当事者(つまり遣いこみをしたもの)としてモルレムの村ではコーディネーターによって説明されていた。幸いなことにそのコーディネーターの発言をそのまま事実として受け取る人間はいなかった。[2010年10月時の筆者によるモルレム訪問時でのCASA元裨益者たちのインタビューより]
[45] 2000年代半ば、アチョリ首長国の関係者が「アチョリ王国」の閣僚を自称し、「アチョリ王国大使」を日本人に委任し、LRA の被害報告とともに日本からの支援金を「詐取」してきたことがあった[2010年8月時の榎本珠良氏による情報提供]。なおアチョリの政治体制において「王国」は存在しない。かつその資金の窓口となったものは後にDP(民主党)の推薦を受けて2011年に国会議員選挙に立候補したものの選挙に敗れ、後にNRMに鞍替えを行って、現在は与党お抱えのRDC(後の第5章を参照)として活動しているという。またガンダ王国も2010年のカスビ王墓火災からの王墓の再建を求めて、多額の支援金を「王国」の名前で援助ドナー機関に求め、アメリカ大使館が25万ドルもの寄付を行ったが、その後に担当者が遣いこみを行い、問い合わせにも応じないために、資金が凍結されたことがメディアによって報じられている[Daily Monitor 2020-04-20]。
[46] アフリカ研究者にとり、こうしたアフリカの人々の外翻の主体的な行為は珍しいものでない。これはある意味で、開発や一様な近代化に対抗し、抵抗するポジティブにアフリカの創造的で、かつ柔軟な主体性の表れと言える行為とも考えられる[cf. 小川 2011;松田 1999]。
[47] エングズィ enguzi は動詞の oku-gula(買う)の使役形oku-guzaから来ている。
[48] もちろん、こういうものは状況にもよる。インフォーマル・セクターに働く人々が税務吏などの官僚をやり過ごす際に同じようにエングズィを与え、また誰かの不正を見逃し、公共の財(例えば病院の薬など)を私物化すること、つまりエングズィを受け取る(食う)ということはウガンダの市井でごく日常的に行われていることである。オブリブェングズィは「近代」(国家の公共性と言い換えてもよい)にそぐう「正しい」ものではないが、「近代」にそぐいきれないウガンダの日常としてある。
[49] 開発プロジェクトに長年関わり続けてきたイギリスの人類学者アプソープは開発の言語のある種の特性を指摘している。彼の言葉によれば、そこでの言語は「(近代性に基づいたものでの)客観性や明瞭性を獲得した」ものである必要があるという[Apthorpe 1997]。この「明瞭で客観的な言語」はもちろん英語であり、しかもその技術は、言葉の高い抽象性と現実とを合致させるものでなくてはならない。
[50] そうした現状とプロジェクト申請のあり方をよく表す言葉としてあるのはガンダ語で「オクサバoku-saba」という動詞であろう。この言葉はプロジェクトを「申請する」という意味で用いられるが、他に「乞う」、また「祈る」という意味も含まれている。実際にいくつかの申請書の表紙には、キリスト教会での祈りを模倣するかたちでの、申請にたどり着くまでの関係者への感謝の言葉から始まり、日本大使や推薦状を書いてもらった地方の政治家、官僚たちへの謝辞を経て、そして最後に神の愛や偉大さにふれて終わるものがたびたび見られた。
[51] ウガンダにおいて「貧困撲滅」や「衛生向上」、「教育改善」などの言葉の抽象性を操ることは、例え最高レベルの教育を受けている人間でも容易なことではない 。実際に在外公館の草の根業務において、申請されたプロジェクトの立案者を呼び、その内容を説明させることは案件の選定の上で頻繁に行われた。だがそこで繰り返されるのは具体的な数字も、現状の地域の描写もない上で「農村貧困層のエンパワーメント」、「周縁化された女性の地位向上」、「教育水準の向上」など、一種の空っぽな“クリシェ”が頻繁に用いられるだけのケースが多かった。
[52] 例えば、この道路建設の陰で、グラゲの人々がエチオピアの国家の公的な何かを横領し、他の地域の発展を阻害している可能性も否定できない。一つの民族や地域の共同性が「国民国家」というスケールまで適用できる状況において、「開発」という想像の運動体は担保されうるものとしてある。
[53] この議論は昨今では「レジリエンス論」として命脈を保っている。アフリカにおける開発と人類学的知見との接合への試みは、島田・本村[2018]、湖中[2018]を参照。だがチャンドラー[Chandler 2014]が指摘するような「レジリエンス」という概念が、共同体と個の関係にどのように介入し、別種の「統治」を生み出していくのかということについては、アフリカの開発論(および開発人類学の研究)であまり顧みられていないのが実情である。
[54] 本稿で述べたガンダのクラン、および出自集団ごとの社会階層の説明は、ハンソン[Hanson 2003]、ファラーズ[Fallers 1964]、サウスウォルド[Southwold 1961]の記述に基づきながら、知人ゴドフリーの親族(ルガヴェ・クランのオルッジャolujjaの層)のオルンベに参列した際の聞き取り(2011年1月8~9日、ムベンデ・ディストリクトにおけるもの)によって再構成したものである。このクランの社会構造については後の章(第5、6章)で再度説明する。
[55] コンヴィヴィアリティ convivialityの訳については、さまざまあるが、ここでは饗応性とした。
[56] イギリスの人類学者のリーンハートの民族誌、『神性と経験』において、リーンハートは非常に物議を醸した言葉を放っていて、「ディンカ人には精神(マインド)がない」というものだ[リーンハート 2019: 228]。邦訳文献での訳文では「ディンカは、われわれにとってなじみのある近代的な概念である「精神(マインド)」、すなわち、それ自体が思考し、自己の経験を蓄積していくようなものに相当する概念を持っていない」と述べられている[リーンハート 2019: 228]。これは実際にこの言葉を非難した人々が理解したような、欧米的な、内在化された心性という意味でない。その本意は、心の機能が社会的な外在性によって作用しているということにあり、社会的な儀礼や集団性、外化された共同性がディンカの人々の心性を形成していることにある[浜本 1986a, 1986b]。このリーンハートのディンカ人の精神(マインド)についての考察である、外化された心性という考えと、各社会の共同性・饗応性 convivialityを司る情動についての考えは、アフリカのシティズンシップや社会的なものを語る際に重要な鍵である。
[57] カールストロムの論調にはその危険性が強く漂っており、カレント・アンソロポロジー誌のホワイト夫妻のコメントなどにもそのような指摘がなされている[Whyte & Whyte 2004: 613-614]。
[58] ケニアやタンザニアで話される沿岸部のスワヒリ語と異なり、フランス語などの影響が強いという[言語学者の梶茂樹氏による私信から2009年によるもの。]
[59] ナムウォンゴにいたコンジョ・ナンデに属するものたち(コンジョ2名、ナンデ3名)が共通して語っていた[2015年8月による調査から]。唯一の例外はカンバスの父ジュバが「ナンデは泥棒だが、コンジョはそのようなことをしない」というステレオタイプ的な説明だが、これは本人がコンゴ側(ナンデ)出身であるためにつじつまが合わないものである。
[60] ヨーロッパ系やアジア系などいわゆる「白人」などの非アフリカ系はこの中に含まれない。
[61] ただし、古着商などの行商人やある程度金を持って動いているものに対しては、国境警備兵や役人などが「通行税」の名目でわいろを要求することは多々あるという。なお、コンゴ側の国境警備兵などもよく国境を越えてウガンダで日常的に食事をとり、日をまたがずにコンゴ側に替えることも日常化しているという[2015年8月のスティーブン・カンバス(筆者のホストのカンバスとは別人)とのインタビューから]。
[62] キセメンティ Kisementi カンパラの中心部からキラ・ロード Kira Rd. 沿いに北東に向かい、ブコト、ンティンダ方面の途上にある町。コロロの丘の北側に位置する。
[63] NRMカード (NRM Membership Card)と呼ばれる手帳。パスポートなどを持たない(必要としない)ものにとって、ウガンダでの身分証明書の代わりとされていた。
[64] The World Bank “https://data.worldbank.org/indicator/SP.POP.TOTL?locations=UG” 2020年12月3日閲覧。
[65] The World Bank “https://data.worldbank.org/indicator/SM.POP.REFG?locations=UG” 2020年12月3日閲覧。
[66] UNHCR, 2019, “Regional Update (November-December 2019): The Democratic Republic of the Congo Situation”, 報告書内の数字では。
[67] UNHCR, 2020, Uganda: Urban Refugees and Asylum-Seekers in Uganda (9 July 2020) “https://data2.unhcr.org/en/documents/details/77604”
[68] チャングワリ難民居住地域 Kyangwali Refugee Settlement
[69] ムセヴェニは当時、NRAに貢献したルワンダ難民の役割を高く評価し、十年以上在住したルワンダ難民へのウガンダ国籍を約束したという[武内 2009]。だが、国内での批判からその約束を翻したことから、ムセヴェニとNRA/Mに失望したものの多くがRPFに加わり、1990年以降のRPFによるルワンダ侵攻に繋がったと論じられている[Mamdani 2001]。
[70] マムダニはルワンダ系住民のことを「ルワンダ国人 Rwandese」でなく、「ルワンダ系集団 banyarwanda」と呼んでいる[Mamdani 2001:161]。
[71] ウガンダを含め、サブサハラ以南アフリカ諸国における統計の問題についてはイェルウェン[2015]を参照のこと。
[72] ムセヴェニ、およびジャネット・ムセヴェニ夫人もその一人だと巷で噂されている。
[73] 1999年から一橋大学社会学部の長島信弘教授(当時、現一橋大学名誉教授)の下、同学の児玉谷史朗氏(地域研究・開発研究)、博士課程梅屋潔氏(当時、現神戸大学教授)などが集められ、JICA の開発プロジェクトのための調査がウガンダ中央部のムピジで行われた。その調査の中で、梅屋氏は「ガンダ人の村と思っていたのは間違いで、選択した村の総人口(うち人頭税を払っているのは10%)のうち80%は、ルアンダ、ブルンディ、コンゴなどからの難民だった」と回顧的に述べている[梅屋 2011:67]。児玉谷氏も多くのインフォーマントがガンダ名を名乗りながら、ガンダ人ではなく、ルワンダ系、もしくはコンゴからの移民であったことを述べていた[児玉谷氏との私信 2011年5月]。なお、2008年から2010年時、在ウガンダ大使館などの職場などでもガンダ名を名乗る筆者の同僚について、他のガンダ人女性たちは「あの体型は決してガンダ人ではない」と筆者に漏らすことがあった(ガンダ人の体系はもっとがっしりしていること、そしてその体の細さからその同僚がルワンダ、特にトゥチ系であることを暗示している)。また調査地ナムウォンゴで、「彼はガンダ(の出自)を名乗っているが、ガンダ人ではないと思う」という言葉は、インフォーマントからよく伝えられる言葉の一つであった。ちなみに、当時のナムウォンゴ・ソウェトⅠ地区のLCI議長の素性についてカンバスが漏らした言葉でもある。
[74] 「自分がルワンダ出身だからといって、フトゥかトゥチかを尋ねることはやめてくれよ」と述べたのはインフォーマントの一人で、カンパラ郊外に住むルワンダ系移民のサンデ・ムレンジ Sande Murenzi であった[2007年1月]。調査上で出会った多くのルワンダ系移民(80~90年代以降にウガンダに帰化)は、表面的にはガンダ人とふるまいつつも、その素性が知れた際には、自らの出自を示すことをできるだけ避けていた。
[75] 可塑性、もしくは可塑的な自己についての議論はジョアオ・ビール[2019:25-30]を参照。ビールの文脈では人間の(往々にして社会的な弱者である)存在が、外在的な要因に誘発され、一見、受動的なあり方に見えながらも、その環境に順応し、柔軟な姿と精神を獲得する自己のあり方を論じている。可塑的ななにかはあくまで外在的な要因によって変化させられるものだが、その変化させられた後に、そこに順応させていく過程そのものが、バトラーの「主体‐従属論」と併せて議論されている。また「自己成型」の概念はグリーンブラット[1992]によるものである。
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