理不尽 |
理不尽なことに腹が立つ。
こう書くと、当たり前に聞こえるかもしれない。だが、ウガンダ(アフリカ)では日本人の自分にとっては理不尽なことばかりで、腹が立ってばかりではきりがないというのも事実である。
日本という環境は(あるいは東京という環境)、良くも悪くもみな人に干渉せずに生きることを学ばされ、それぞれの「自律性を尊重する」のが自然であるとされる。
それで、そういう「日本人」がなんの免疫もなくアフリカに来ると大変なことになる。仕事がらJ○CAの協○隊の方々のレポートが回覧でくることがあるのだが、中には「毎朝、道を歩いていると挨拶されるのが苦痛で苦痛で、だから朝はウォークマンで耳栓をして、挨拶してくる人たちの姿をすべて無視するようにした。そうすることで、すごく自分の環境が快適になった!」とわけのわからない報告書に出遭ったりもする。
ここまで極端ではないが、似たような経験はある。今の職場に勤める前に、月の下宿料5万シリング(日本円にして3千円ほど)の下町の宿に住み込んでいたとき、朝起きて、朝飯を近くの店に買いに行くのが本当に苦痛で苦痛でならなかった。
牛乳を買う。チャパティという小麦粉のパンケーキを買う。両方とも数百シリング(十円ぐらい)のものである。それを店の前を縄張りにしているバイクタクシーのやつらがはやし立てる。「俺にも買え!てめーは自分の飯だけ買いやがって、なんて自分勝手なやつだ!」
こういうのは、もちろんたかりたいからである。おごったところでかれらから感謝など期待できない。これを機会にずっとたかりまくる。下町のこういうヤクザもんたちはたちが悪かった。
そして、ウガンダに来て二年以上がたつのにもかかわらず、まだ理不尽なことに腹が立つ。今日は家の帰りに、運転していた車の前へ突然に鼻を突っ込むようにしてマタツ・タクシー(トヨタのハイエースを乗合タクシーに改造したもの)が車線の途中から割り込んできた。それでいて割り込んでごめんよみたいな手での合図も、なんの挨拶もない(たいていはないものだが)。
ふざけるな、と警笛をならし、パッシングをすると運転手と乗客が嘲笑うように「中国人!」と叫んできた。
思わず、後ろからタクシーのケツに愛車のエディ号の鼻面を軽く(傷がつかないように)ぶつけてやる。むこうの顔色が少し変わるが、それでも嘲笑うのをやめない。「中国人!ジャッキーチェン!」とはやし立てる。こちらがスワヒリ語系の悪態である「○マニョコ!!」と叫んでやると、ようやくはやし立てるのをやめた。
ウガンダで理不尽さに向き合ったとき、取る方法は大まかに三つ。先の協○隊員のように耳をふさぎ、理不尽なことの存在自体を認めないことがまずひとつ。二つ目は、ひたすらに耐えること。そして三つ目は、理不尽さには理不尽さで応対してやること。挑発し、時には笑い飛ばし、暴力には違う種類の暴力で応酬してやること。
こういうふうに言うと、かなり横暴な気もするが、でもカンパラでストレスなく過ごすのには、三番目の方法が一番だということは私が二年間かけて見つけた事実ではある。別に車でぶつけ返してやれとはいわんが。
でも、こんな話をどっかの善良な方々(たとえばNGOの職員とか、国連の職員とか)に話すと、「それは弱い者いじめではないですか!?」みたいな見当違いなことを言われるのかもしれない。いえいえ、誤解してはいけません。喧嘩や罵りあいもコミュニケーションの一つなのですよ。理不尽であれば、理不尽であるほど、そのコミュニケーションの深みはあなたがたには測れんのですよ、たぶん。
写真は、件のタクシーと怒鳴りあいをしたワンデゲヤの道路。この道の先にある交差点には、日本が援助して敷設された信号機があり、それは部品破損のためにいまは使われず、放置されている。もう二年近くになるだろうか。交差点は信号機もなく、交通警察の適切な誘導もないまま放置されて、常に渋滞が絶えない街の一角である。
わが日本大使はこのワンデゲヤという地名を何度も忘れる。その街角が大使館から100mと離れていない場所に位置しているにも関わらず。カンパラで有数の繁華街にも関わらず。たぶん、彼はこの街の理不尽さに出遭う必要はないのだ。
そういう意味で、私の職場には、カンパラの街角とは別の意味の理不尽さが横行している。それを私の職場仲間はみな、涼しい顔でやり過ごし、なにごともないように日常を暮らしている。私個人はこの理不尽さに時に腹が立つのだが、それに対して笑い飛ばしたり、挑発したり、ののしりあったりすることができない。
厄介な二つの日常を私は行き来している。