カンパラ、暴動/再見!/ナイロビへ |
滞在先はナイロビ大学の理工学部のキャンパスのあるチロモの裏手、Westlandsという閑静な住宅街の一角、そこにナイロビ学振事務所がある。
今回の訪問はナイロビ学振の招待によって、25日に講演をすることで実現したものだ。そのために渡航費などは事務所持ち。私は千載一遇のチャンスということで、職場の許可を得てようやく夏休みを手に入れた、という次第である。
その一方で二週間前のカンパラでは不穏な空気が漂っていた。
9月10日、11日、12日の三日間、カバカ王(ガンダ王国国王)党派の人々によるカンパラ市内でのデモが暴動にまで発展し、警察交番の焼打ち、西部からの長距離バスや一般車両の襲撃、および火つけ、そして出動した警察機動隊への投石などが生じた。応じて警察は催涙弾のみでなく、銃で応戦。デモ側での死者は三日で十余名の上った。
また暴動を扇動したということで、4つのラジオ局が閉鎖され、街の一部では厳戒態勢が敷かれていた。
私も週末は職場から自宅待機を申しつけられる。普段はつけたことのない無線レシーバを一日中電源オンにして、職場から入る情報を自宅で逐一チェックしなくてはならない、という文字通り行き場のない週末だった。
その三日間、たまたま東部の調査から戻り、私の部屋に居候していたS氏は、なぜかたまたま暴動後の市場に立ち寄り、その時の写真をくれ、そして人々の様子を教えてくれた。上にある写真はその一部である。
暴動後に上半身裸で踊り狂う中年の女性たち。女ものの化粧をして、髪を逆立て、練り歩く若者。中には顔にペイントをするものいたという。暴動で、街の一部は祭りのような熱狂を得て、普段とは違う顔を覗かせる。「まるで重要なサッカーの試合後のような狂乱ぶりだった」とS氏は語った。
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暴動後、日曜の夜、騒ぎのあったオールド・カンパラ付近のレストランで帰国をするS氏と食事をする。すでに街は静かさを取り戻し、外出を禁じられていたであろう白人たち、アジア人たちが週末の最後の時間をようやく羽を伸ばしていた。
S氏とは次に会うのはいつになるかな、と話す。つい先の春に京都に訪問したときは、彼のアパートに泊めてもらった。今度会うのはカンパラか、京都か、それとも他のどこかか。
彼は日本へと帰る。私はとどまる。
だが、二週間後にナイロビに来ることで、動く自分を再確認する。明日はモンバサに行く。発表の準備もまだ済んでいないが、その前に頭をからっぽにする必要がある。仕事だけでなく、カンパラという街に少し疲れはじめている自分がいる。モーツァルトが「旅は自らを新たにする」というように、すこしだけ私は違う場所に自分を置いてみることで、すこしだけ違う自分を発見したいと思う。
だから、暴動の背景と久しぶりのナイロビの様子はまた今度に。