管理化される性/アフリカの女子割礼 |
実は先週に休暇を取りケニア、ナイロビに出かけていた。目的は学資を融資したキベラスラムの友人が本当に大学に行っているかどうかを確認すること、ナイロビの学振事務所からながらく借りていた本を返しに行くこと、そしてもう一つは今の仕事を終えた後にはじまる研究生活のための準備をすることだった。
さてそうした用事の合間に、事務所で時間をつぶしていると、牧畜民の研究者である河合香吏さんに会い、つかの間雑談に楽しんだ。今回、久しぶりに調査地であるケニア西部のチャムスに行ってきたその帰りだという。彼女はウガンダのカラモジョン地域のドドスでも調査をしているが、2002年以後は治安の問題もあり、行っていない。ちなみに生態人類学者としてよく名前を知られているが、文化・社会の事柄についても造詣が深い。
フェミニズムとアフリカの女子割礼の話となり、ウガンダで女子割礼禁止の法令が成立しようとしていることを伝えると、「ウガンダではまだだったのね」と不思議そうに感想を漏らした。
アフリカの女子割礼について、留保なく、感情的にならずに議論するのは、まあたいていの場合難しい。特にある程度教育のある女性と「女子割礼」の話をすると、それはおおよそ「アフリカ父権性社会」の象徴であり、打破せねばならぬ旧弊であるとされる。
まあ、いつかどこかで書いたけれども女子割礼は「文化・社会」の名を借りた女性への暴力であると、急進的なフェミニストたちの間で目されていて、そんな「文化」を守ろうとする「人類学者」は、女性の敵であるかのように言われてしまう。
だが、問題はそんなに簡単ではない。河合さんにその話を振ったのは、彼女が個人的にチャムスでの女子割礼の事例を詳細に集めているということをどこかで聞き知っていたからでもある。
彼女曰く、ケニアでは女子割礼を初めとする身体加工の文化・習慣が法的に禁じられているにも関わらず、それを何らかのかたちで温存している民族が多数あるのだという。(ちなみにウガンダでは女子割礼の例はケニア国境に近い地域のみとなっている。) 一般的にいうと、ケニアを含む東アフリカでの女子割礼の文化的意味は女性の成熟あるいは「豊饒性」を意味する。チャムスでは女子割礼をしない女性は正確な意味で「女」とはみなされない。つまり結婚の対象でもない、まだ子供である。
女子割礼を受けていない女性も、年をとれば、とりあえず「体」は性交が可能な女性となる。生物的には妊娠も可能となる。だが、その女性たちはチャムスではあくまで子供とみなされ、結婚の対象とならない。だから産まれる子供は結果的にはすべて「未婚の子」となる。本来なら、妊娠した時点で、誰かがその娘を引き取り、生物学的父親の素性がわからなくとも、社会的父親となり、その子を育てることができる。
だが、女子割礼を受けていない娘は、誰も引き取らない。女子割礼を受けていない娘の子どももまた誰も(娘の両親さえも)受け入れない。だから、この場合には二つの選択肢しかない。一つはその子を産み、チャムスの社会から離れ「一人」でその子供を育てること。おそらくこの多くの場合はナイロビか近くの町で「娼婦」となるようなことを迫られるだろう。そしてもう一つは堕胎である。闇医者のところにいき、しかるべき処置をしてもらう。そして、近年多いのはこの後者のケースだという。
これを読んでいる人はあるいはこう思うかもしれない。「女子割礼」も「堕胎」もともに女性の身体を甚だしく傷つけるこれらの事柄は、アフリカの農村の文化的悪習や教育のなさから生じている。だから、これを是正するためには、性に対する教育、及び啓蒙が必要であり、この人々には「正しい」教育のための開発が必要であると。
だが、問題なのは「何」が「正しい」知識であるかということだ。女子割礼は女性器を傷つけ、出産において膣を傷つける危険性を増大させ、女性の健康を損ねる。これは近代医学的には「正しい」。また「堕胎」をうむような文化的背景を議論した場合、そうした「未開」の文化自体(フェミニストはそれを父権性と呼ぶだろう)が、「悪」であるから、根こそぎに啓蒙すべきだという場合、近代化を促進する立場のものにとって、(ものすごく論理的に飛躍があるものの目的遂行的には)正しい議論ともなりうるだろう。
だがチャムスで女性を「女」たらしめているものを単に「父権性の暴力」であるということは必ずしも現地の文脈からすると「正しく」はない。
欧米の女性活動家が問題にするのは、女性器の切除は、女性の「性」というものが男性社会に支配される端緒であるということだが、はたしてその前提はどこから来ているのか、実は曖昧に議論されることが多い。ある人(例えばアリス・ウォーカーとか)は女性のクリトリスを切り取ることは女性の快楽の術を切り取ることだという。切り取るものは社会にとって「母」の存在となる伝統的産婆たち。彼女らは自分たちの「娘」を「父」や「兄弟」たちに差し出すために、「娘」の体を従順なものへと仕立てる。つまり性的にカタワにしてしまうことで、男性の手を借りずには快楽を覚えられないものへとしてしまう。「母」との共犯による「父」「兄弟」たちの身体的支配。
でも、ここで少し待ってほしい。アフリカの一社会の習俗をなぜ「父権性支配の道具」と一足飛びに位置づけることができるのだろうか。「父」「母」そして「娘」というその比喩そのものは、フロイトやユングの心理学にあまりに束縛され、仮想敵を打ち破らねばならないと強迫的に思いこんでいるフェミニストたちの空想にすぎないのではないか?「母」が「娘」を「父」に性的な支配のために差し出すというのは、DVでも語られる、ひどく流通した物語である。だが、女子割礼が行われる社会は、近代の一夫一妻制の「家庭」に収まる話ではなく、多様な性の交流の上で成り立つ、一夫多妻制(あるいは多夫多妻制)の社会でのことだ。生物学的な父と社会的な父は切り離され、多くの「親戚」たちが様々な呼称を伴い、共生している「家族」でのことなのである。
もっとチャムスの女性たちの性ーセクシュアリティーに目を向けてはどうかと、この女子割礼の議論に当たるときに私はいつも思うのである。先日に訪れたナイロビのキベラでキクユの男性に聞くと、女子割礼を施された女性に対し、男性は一晩中クリトリスのない陰唇をさすり、相手の女性をゆっくりとしたオーガズムへと導くのだという。いや事実は、導くように迫られる。それは夜通しをかけての作業であり、男性が女性に行う奉仕の作業としか思えない「重労働」である。また、それは女性が率先して男性を「導いて」行う一つの性行動でもある。だから、もし女子割礼が行われていない女性であれば、その快感はもっと即時的なものでしかないのではないか。また、男性からの「性」の管理はもっと容易いものになるのではないか。
チャムスのセクシュアリティの詳細を、私は知らない。河合さんもそこまで聞き込んでいるかどうか。でも、東アフリカの女性の性には、女子割礼のような機会を通し、女性自体が主導権を握る側面が潜んでいる。それを見落として、女子割礼=父権性社会の支配という読み方をし、女子割礼を禁じていくことは、逆に女性の性の「自由」を欧米側の視点で断罪し、禁じていくような、「父権性社会」と同じ構造を持った暴力になりかねない。(そのことは1990年代後半に岡真理さんあたりが鋭く指摘していることなのだけれども、女子割礼の議論はそのころから根本的にはほとんど進んでいない。)
性について書くのは、ちょっと際どいことなのだけれども、また別の機会にウガンダの状況についても書いてみたいと思う。中途半端だが今日はこの辺で。(写真はナイロビの街角から。ケニア国立文書館前にて。2009年9月26日に撮影。)