管理化される性(2) ―性的搾取/「娼婦」/カンパラの性生活― |
先々週末は珍しく遠出をせずに、家の付近で、何人かの人に会うだけの、久しぶりの「休日」を過ごしていた。3月の下旬にいまの職場を離れ、日本に戻ることもある(そして数ヶ月後にまたウガンダに自分の調査のために戻ってくる)。だから週末はもういくつもない貴重な自由時間なのだが、これからある出張や旅行、引っ越し準備を考えると、今回は休養して、体力を温存していたいところである。
しかし訪問を受けたのは、珍しいことに日本の研究者だった。T大学の国際法が専門で、ウガンダにおける「性的搾取」の問題について調べたいという。
「性的搾取っていってもね」と私は言葉を詰まらせた。「何を基準にするからだよね。」そう言ったが、相手に伝わっているかどうか。
女性の立場が低いのは、ウガンダではごくごく当然のことである。農村では多くの家庭が一夫多妻制の家族制度をとっている(だから女性の地位が低いとは言い切れないのだが)。都市部ではイスラム以外に、これみよがしの一夫多妻制はみられないものの、男女ともに愛人を複数持つのはよくあること。だから一つの「乱婚制」をとっていると言っていいもいい実状がある。だから、女性の社会的立場とかにつながる「性的搾取」とかって、日本からはものすごく遠く、比較が簡単にできないような実状であったりする。
だが、まあそう言う話は飛ばして、カンパラでの娼婦の話を主にする。外人相手の高級娼婦が固まる場所(クラブ)があり、それらの値段はいくらかということ。彼女らは内戦の影響で、ルワンダ系の女性が圧倒的に多いこと。それに対してスーダンからケニアから来ている女性たちは、下町でそれとはまた別の彼女らの「シマ」をもっており、そこのクラブではガンダ語が通じずに、スワヒリ語が用いられていたりする。だが、彼女らの間にある値段の格差は半端ではない。およそムズングが払う一晩の値段が4万シリング(日本円にして2千円弱)だとすると、下町では1万シリング(500円弱)である。さらに郊外では5千シリング(250円弱)、2千シリング(100円弱)と続く。
そこまで話をすると、まあため息をついていた。「500円で一晩、女性を買えちゃうんですか!?」というのが率直な感想であろう。日本や欧米諸国とこの国の経済を比べること自体が、すでに「性的搾取」以前の問題なのだが、「国際法」の方々にとってはその経済格差自体が「性的搾取」と目に映るのかもしれない。
「娼婦」といわれる女性たちの中には、金を取らずに、ただ酒をおごられ、男性と寝てそれで満足して帰る女たちもいる(という風に聞いている)。彼女たちにとって、それはクラブに来る男性と一緒で、酒とセックスは憂さ晴らしである。だがその反面、金を取らなければ生活ができない女たちもいる。ムズングを相手にする「娼婦」は一晩に5万シリング(2500円弱)は欲しいともらす。それは住んでいる部屋の家賃や抱えている子供たちの食費、客を取るための着飾る服飾費、そして主に外食ですます彼女らの食費を賄わなくてはならないからである。
だが、彼女らの生活は一般的なカンパラの市民と比べると余りに贅沢ではある。自分ともう一人の子供だけで、一ヶ月15万シリング(日本円にして7500円、大抵の人々の家賃は5万シリング程度)の部屋に住み、外食(一食2千シリングはする)ですます。時には酒をふんだんに飲み、夕方からはプール(ビリアード)で遊んでいる。カンパラの一般的な人々の給与が、月15万シリングから20万シリングの間であることを思うと、彼女らがいかに「高給取り」でることがわかるだろう。もちろん、その生活ははかないことを彼女たち自身はよく知っている。だから一刻も早くなじみの客を見つけて、あわよくば「二号さん」か、「本妻」にしてもらうわけである(両方とも現在では死語ですな)。
下町のパフォーマーたちに混じって暮らしている京大のM嬢から話を聞くと、女性のパフォーマーたちの暮らしはもうちょっと複雑だという。3人ぐらい彼氏がいるのは当たり前で、お金が必要なときは時を見計らって、その三人(以上)いる彼氏を交互に当たり、金をせびる。カンパラでは文字通り「金の切れ目は縁の切れ目」である。だから彼女らの生活は、彼氏という複数の男性の支援者がいないと成り立たない。しかし、彼女たちは社会的カテゴリーとしては「娼婦」ではない。それに彼女たちの方も、「彼氏」たちに複数の女性がいることをそれとなく知っている。お互い様なのだ。
その状況で「ウガンダにおける性的搾取って?」と訊かれても、「うーん、なにから始めればいいやら」と悩んでしまうわけである。たぶんそれには、フーコー的に社会における「性の管理」について、考えを広げていかなくてはならないと思うのだけれども、それは次の機会に。
80年代から90年代に、日本の中高年がバンコクに買春ツアーなるものを行っていたという報道が一時期盛んにされたことがある(あるいは今でも隠れて実行され続けているのかもしれない)。なるほど、それは「性的搾取」と呼ぶにふさわしい光景だろう。あるいは、年老いた白人が若いウガンダ人の愛人を連れて歩き、高級レストランに出入りする。レストランの中で、老人は少女に乱暴な言動で指図をし、これ見よがしに自分の財産をについて言及をする。これはカンパラでも見られる光景で、なるほどこれも国際的「性的搾取」の一つの例といえるのかもしれない。
でも、二人以上の人間の間で金がセックスと引き替えに行き来する、それはカンパラでは、あるいはウガンダでは日常のことである。確かに金の関係が「搾取」を誘うこともある。だが、問題はそう簡単ではない。ここでは「金」が愛情表現の一つなのだ。金を与えることは生活のすべを与えることで、それはウガンダ人にとって「(友)愛」である。だから、一晩に5万シリング(カンパラでの平均月収の4分の一)を簡単に払えてしまうムズング、外人たちは「慈愛」に満ちた人々として、彼女らは称える。そして実際にそう思っているのだろう。そこにあるのは、実はものすごく深遠なコミュニケーションの断絶なのだが、お互いそれを問題とすることはない。かくして「愛」の物語は語られ、そして「性的搾取」という「言葉」は、彼ら/彼女らの現実からほど遠い。
だが、もしかしたら彼女らは確かに性的に搾取されているのかもしれない。北部のグルではここ二年でクラブに「娼婦」、マラヤの姿が急増したという。グルにいる友人は、北部の治安の安定化と、復興プロジェクトの増加で、国連やNGOなどの職員が増えたことと関係があるという。金を持っている援助関係の人間が、クラブで女性を買い始める。だから、「マラヤ」の女性たちが増えるのだと。
「開発」ということで、現地の女性たちのエンパワーメントで来る人々。それは1970年代にヴェトナム戦争でバンコクに駐留していた米兵がタイの女性を買う構造となにも変わらない。アジアを共産圏の権力から解放するためにきた戦士たちが、一時の休息を楽しむ。「開発」の戦士たちも、アフリカの人々を救うために来て、一時の休息を現地の女性から得る。「戦争」を引き起こした原因も、その原因を自己正当化するための言葉も、自らの側から生じたものにも関わらず、一方的な犠牲者としてのアジア・アフリカを救い、その女性を楽しむという、どうしようもないナルシスティックなヒロイズム。
だが、「女性たち」は必ずしも「救われる」だけではない。何人もの男性を股に掛け、のめって自分を支配しようとする外人男性には肘鉄を食らわす。別にあんただけが男じゃない(お金をたくさん持っているのはあなただけれども)。金のためだけに私は生きているんじゃない(でもお金のない愛は信じないけれど)。私を金で縛ろうとしないで(でももてるお金は私につぎ込んで)。このような金と愛(「愛」とはここでは自己決定権のことなのだろう)のダブルバインドの言葉を、呪いを、つねに男性にかけつつ、翻弄し、自己の欲望に忠実に生きている。
だから、「搾取」という言葉が活きるのは、究極の状況(女性にまったく「自己決定権」のない状態)でしかないのだが、国際法ではどうやら、もうすこしはっきりわかるかたちで定義されているようで、話をしていても、現実の複雑さについて、今一つ共通の理解が得られなかったのが、少し寂しかったりする。まあ、「国際法」やら「開発学」の輩はたいてい、そんな了見のものが多いのだが。。。
(写真は先週の出張先のウガンダ東部、カベラマイド県にて撮影したリンギリという一弦フィドル。表面に張ってあるのはパイソンの皮だという。中央部のガンダにも同じ形で同じ名の楽器があるが、それと比べて、弦を張る部分が異様に長い。2010年3月3日に撮影。)