祭りの後/岡山へ/そして、さよなら京都 |
学会(発表)が終わった。二週間前のことである。いろんな人に世話になりながら、とにかく拙い発表を終わらせた。
発表自体は本当に拙さが現われたものの、作った資料から見られる研究成果はわりに好評だったようだ。「今後、論文を書いたらぜひ送ってください。」と何人もの人に言われた。単なる「今後の研究成果を期待しています。」はお愛想と、未熟さを暗に指摘する言葉だと思うのだけれども、そうではなく、今後の研究に注目しているとの意だと思っていいのではないかなと思う。
もちろん課題はある。これはまだまだ、自分の本当に表現したいことにはつながっていない。まず、外堀を埋めたところ。だから、これで評価をされても、まだ充分ではないはずなのだ。それに、これで「暴動」研究者と思われても困ってしまう。
でも、まあ研究者の生活に、仕事として復帰できた。それが嬉しい。だから、祭りの後は少しはしゃいだ。
ただ、久しぶりの学会では友人の訃報も聞くこととなった。同世代の研究者の突然の死。理由はわからない。
祭りは終わった。でも、仕事が終わったわけではない。昨日と一昨日は、岡山の友人に呼ばれ、経済学部の学部生と院生たちへの講義。アフリカでの「紛争と貧困」というステレオタイプを、変えることができるか、それが講義の目的だったけれども、すこしはうまくいったのかなと、友人から渡された学生たちの「感想文」を読んで思った。
でも、素直すぎる。「この授業を受けて、たった1時間半の間だけれども、アフリカに対する考え方が変わりました!」なんて無邪気に書いてくると、天邪鬼の私としては少し引っかかる。たった90分の授業で、君たちそんなに容易に自分の考えが変わるものなのかね?と思うのだが、書かれている感想文の拙さもある。またやはり「紛争」、「貧困」、「民族/人種」に関する偏見などは、授業で話しただけの内容以上には(当然のことだけれども)捉えられていないことに、自分の力量不足を省みる。
たとえば、学生が送ってきたある一文。(ちなみに括弧内は「感想文」を読んでの私の感想)
「○△先生の講義を聞いて(「先生」はやめてくれ)彼らは私たちとは全く違った価値観や文化を持っており(「文化」や「価値観」という言葉は一度も講義で使わなかったと思うのだけれども)私たちの常識で安易に理解することは難しいんだなと分りました(安易に「難しい」と分ってもらっても困るが)。特に印象に残っているのはウガンダの人たちは誰かがお金や食べ物に不足して困っていたらみんなで分け合い、助け合うということです(それほど簡単でもないのだが)。これが本来の人間の姿なのかもしれませんが(「本来の人間」ってなんや?)、今の日本ではありえないことなのでとても愛があって素晴らしいと思いました(「愛」ってなんや?)。私もアフリカかは分りませんがどこか外国に行って違う価値観や文化を体験したいと思います(外国だったらどこでもいいんか?)。」
というふうに、自分の講義が安易な「異文化理解」講座に変わってしまったのかもしれないという危惧が頭によぎる。
でもね、たった90分だしね。250人というあれだけの規模の学生を対象に話したのは、本当に初めてのようなものだったし。いろんな人間がいれば、いろんな解釈もある。話してもいない内容を「感想文」に書いてきた学生だっていた。だから、仕方ないのかもしれない。しかも、もともとの講義は「経営学」。そういう状況で90分では、「文化」についても、「貧困」についても語るのに不足が出るのは致し方ないか。。。
そして翌日は、岡山大学の友人と倉敷を歩いた。暑い日差し。時にアフリカにいたときよりも、日本では暑く感じる。でも大原美術館は、よかった。上野の西洋美術館でも見れないような内容を備えていたこともあるが、久しぶりに贅沢な時間を過ごさせてもらった気がする。
岡山から京都の自室に戻り、そして荷造りを始める。明日がアパートの明け渡しの日だ。二カ月もの京都の生活。楽しんだ。けれど短かった。「休暇」というのはそういうものかも知れない。
だから、いつものことだ。私は去る。あるいは誰かが立ち去る場所にいつも居合わせる。移動が私の生活の本質なのかもしれない。この部屋でさえ、一日留まることで、自分の中の何かが沈殿していくようで、とにかく外に出て、街を見て廻ることを自分に命じなければならなかった。
さよなら、京都。とりあえず今は。
(一枚目の写真は京都・上京区の自室にて。6月8日に撮影。二枚目は6月10日、倉敷、旧大原邸。大原家はクラレなどの紡績/化学会社の元となる倉敷紡績の創始者の一族であり、20世紀初頭に大原美術館を設立した。倉敷の歴史は大原家を無視しては語れないのだという。三枚目の絵は、大原美術館の基礎となる印象派絵画の収集を行った、明治の画家児島虎次郎の作「和服を着たベルギーの少女」。大原美術館所蔵。)