夏のヒグラシの声、あるいは『ヤサシイワタシ』と『所有せざる人々』 |
この時期、この大学の緑深いキャンパスの中で、ヒグラシは朝方4時半頃に鳴き始める。
5年前に会社を辞め、大学へと戻ってきたとき、会社を辞めた原因ともなった心身症と、そして復学後すぐに発症したシックハウス症候群に悩んでいた私は、夏の間だけキャンパスのすぐ横にある留学生用宿舎の一室を割り当てられ、そこで朝、夕とヒグラシの鳴き声に耳を傾けていた。
ヒグラシは、不思議な生き物である。毎日、ほぼ決まった時間に一斉に鳴きはじめ、そしておよそ20分後にふと鳴きやむ。心身が病んでいた私は、そのヒグラシの声に耳を傾け、空っぽの自分にその声を響き渡らせていたのだが、いま思うと、あれはよほどに追い詰められていた自分が自然と思いついた治療の一種であったかも知れない。
その秋に、ウガンダへと出かけ、その後は数度の一時帰国はあったものの、結局4年の間、日本では夏を過ごさずにいた。ウガンダにいて、日本を懐かしく思ったのは、この夏の時期の森の中を降るように鳴くヒグラシの声だった。
先週にようやっとのことで見つけた印刷会社でのバイトは、先方の都合で一週間でクビを切られた。すでに勤めて三日で、あまりにヒステリックにわめきたてる職員の女性の声に気分を悪くし、家に帰ってはゲーゲー吐いていたこともあり、すぐに辞めることになるとは思っていたのだが、これほどに短い間で終わってしまうとは予想がつかなかった。自分に問題がなかったとは言わないが、 クライアントからの無理な注文に自分たちの神経を際限なく削って、かつさらなる競争へと駆り立てられていく「広告」の現場と、そのことで疲れ果てて、他人に理不尽に部下にあたることが当然というような上司にも問題がなかったわけではないだろう。ただ、このことは相当に自分の中の病をまた引き起こさせる出来事ではあった。
一昨日、違う職場の面接に行って自宅に戻り、それから外に出ることができなかった。正確に言うと起き上がることができなかった。なんてまあ、この都市は病んでいるのだろうと溜息をついていたのと、そしてなぜこうもまあ、自分は他人の病いのとばっちりを食うのだろうと落ち込んでいた。もちろん、自分の身勝手な性格や時に融通の効かない応対が、人の病いに火を点けることを百も承知の上で。
寝ころびながら、自分の部屋にあるマンガや小説のコレクションに目を落とす。ひとつはひぐちアサの『ヤサシイワタシ』(講談社アフタヌーンコミック)であり、もう一つはル=グィンの『所有せざる人々』(ハヤカワSF文庫)である。
ひぐちアサの『ヤサシイワタシ』は、ある大学の写真部での物語である。
高校でのテニス活動に挫折した芹生は、大学二年で写真部に入り、ある日海外のバックパック旅行から帰国したばかりの先輩である唐須弥恵に出逢う。寡黙で常識的な芹生と対照的に、弥恵は奔放な女性で、写真部では問題児。言動も子供っぽく、常に人の反感を買う。ただ、感じるものすべてに対して正直だ。その奔放さに芹生は魅かれ、そして弥恵は芹生の真面目な沈黙に魅かれ、そしてお互いに付き合い始めることになる。
だが、弥恵の奔放さは止めどがない。前の彼氏(写真部)との事情をひきずり、部内では常に敵を作る発言をし続ける。海外でも日本でも時にクスリだってやっている。家庭環境も相当なものだ。父親の都合で、弥恵はラオスの見知らぬ男性と日本入国のために書類の上での結婚をさせられ、その後に離婚し、戸籍上ではバツイチ。だが、一番強烈なのはその言動。写真部に車椅子の入部希望の子が訪ねてきたとき、彼女は「無理でしょ。受け容れるなんて、偽善だよ!」と言い切る。人に厳しい発言をとことん言いながら、自分の行動は全く顧みない身勝手さ。
もちろん、私はこれを身につまされながら読んでいた。そして、弥恵の悲劇的な人生の締め方も、他人事とは思えないなぁと思って読んでいた。
歳下でいながら弥恵よりも数倍大人である芹生は、彼女をなんとか受け止めたいと思っている。彼女の成長を人一倍願っている。だが、彼女はそんな彼の思いを撥ね退ける。「あたしね、ホントゆーと、自分のことでせーいっぱいでさ、あたしがいやならふりなよ!」
野球マンガ『おおきく振りかぶって』で世間的なヒットをあてたヒグチは、作品の中での人物の心理描写が秀逸だ。同じアフタヌーン出身の木尾四目に似た、リアリティのある人間関係と登場人物それぞれの身勝手な心理。ミスコミュニケーションが際立ちながらも、お互いが会話と意思とを被せ合うようにして、関係を続ける。それが痛々しい感じで伝わってくる。
物語の中で何をしてもうまくいかない弥恵は、暴走を始める。二人は別れ、そして芹生の願いも虚しく、彼女は自らの人生を自死というかたちで幕を閉じてしまう。当然といえば当然の、だが、それでも突然の死。
芹生たちは、残されたものがいつも思うように、なにかができたのではないかという思いを抱え、取り残されるのだ。
ル=グィンの『所有せざる人々』もそうだったが、そこで描かれているのは、あまりに無防備な人々の姿である。主人公のシェヴェックは、ある無政府主義者たち(オドー主義者)が実験的に作った社会で暮らす天才的な物理学者である。彼の研究は非常に高度だが、だがその言葉を理解するものはだんだんといなくなっていく。無政府主義者たちの社会であっても、科学も研究もすべて個々人の政治に利用されてしまう。だが純粋な「オドー主義者」である彼はそれを許せない。知識も、空間も、食事も、財産も(そもそも財産という言葉はオドー主義者の間にはないのだが)すべてが共有されなくてはならない。独りで「所有」されるべきものなどないのだ。そして、人々に共有されてしかるべき知識が、個人の裁量でなにかの駆け引きに使われることさえ我慢が出来ない。結果として、彼は孤立していく。
相互依存を絶対条件とするその社会で、シェヴェックはあまりに人を信じすぎる。それでいて、その社会の「お互いを利用しあう」という裏の姿に、あまりに純粋に「否」と言う。悲劇的なのは彼の友人であり、劇の創作家でもあったティリンで、そのあまりに鋭い洞察で批判的な劇を作るあまりに、彼は放浪をさせられ、精神病院へと送られる。最後には、一番最初に書き、評価された劇のシナリオを何十回と書き続ける、そんな精神状態へと陥ってしまう。
だが、シェヴェックは共有されない知識/財産を手にしながら、自らの社会を越えて、連帯を訴える。あまりに絶望的な政治的な圧力を受けながらも、自らの思想を捨てずに。
私が青い理想のカラをいまだにケツの端にくっつけているのは、クロポトキンやポール・グッドマンらの思想の影響を受けたル=グィンのこの著作によることが大きい。いまのこの時代の現実とあまりにかけ離れているがゆえに、あまりにまぶしい。あるいは、あまりに青臭いものに聞こえるこの物語。
自分と現実の距離を顧みて、泣きたくなるようなことが時にある。理想など追う時期はとっくに過ぎたというのに。
この日本の、東京の、訳の分からない悪意に囲まれた自分は、本当にどうしていいか分からなくなるのである。
(写真は、今朝方にヒグラシの声を聞きながら撮影した夜明け前のキャンパスの森。2011年7月28日午前4時40分頃。)