ひかり/かげ |
”わたしから 光(かげ)をときはなしてくるる あなたとふひと なのか あなたは”
由季 調 『互(かたみ)に』より
今月に入ってから、さまざまな環境が変化し、それに応じて、言葉を交わす人も変わった。そうした人たちとの会話に刺激を受けて、いままでに見えなかった世界の姿が現われてくる。
論文の仕上がりは、どうかというと、それはまったくのところ遅々として進まずというのが正直なところなのだが、それでも私の世界は、この一ヶ月で変わってしまった。
どう変わったかというと、いま私が見える世界では、光と陰がそれぞれ一つのものとして、物事のかたちに輪郭を与えていることだろうか。
当たり前のことだが、光も陰も、それぞれ「表裏一体」の現象だ。私の部屋にさしこむ、あの優しい冬の陽射しから、浮かび上がる書棚の輪郭は、光と影によってそのかたちを示している。
世界は、光陰で成立している。私が目がつぶれそうな「ひかり」を見つめているときさえも、「かげ」はそこにあり、また暗闇の部屋の中で、盲のような思いで佇んでいるときさえも、ものの輪郭を浮かび上がらせる「ひかり」はそこにある。光によって焼き切れる視神経、闇によって奪われる視覚、その二つを経験して、この真っ白で真っ黒な世界にかたちというものがあることがようやく分かる。
読者にはなにを言っているか、わからないかもしれない。
私は、ただこう言いたいのだ。世界は混沌としていたが、ようやく光と陰とを見究めることで、そのかたちを示すことができると。
もちろん、世界はいまだに混沌としている。光も闇も時には区別がつかない。だが、私はようやくどのように、世界に対峙して、世界を観るのかを、少しだけ学んだに過ぎない。かたちが先にあるのではない。光とかげによって、ようやくかたちを得るのだ。
ジョルジュ・ラトゥールは、おそらくその光と陰の本質をもっとも心得ていた画家であろう。そして、カラヴァッジョ。蝋燭の光は、恍惚の男の表情を照らす。若い少女はその顔から光を発しているかのような火の照らしを受け、男に啓示を与える。だが二人の存在は、蠟燭の火がなければ、われわれには知ることはできないのだ。二人がいて、絵柄が示せたのではない。蝋燭の灯りによって、二人が、二人の関係が、世界が姿を現したのだ。
そして、研究者は「言葉」という蝋燭の灯りによって、世界を切り取ろうとする。私の「言葉」が、どれだけ世界を明るみに出すか、それをこれからやってみねばなるまい。。。
(写真はジョルジュ・ラトゥール「聖ヨセフの夢」より)