備忘録:二つの「ベスト・キッド」と「車」の比喩について |
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昨年のある大学の英語の授業で、学生たちに好きな洋画を観させて、その上で英語でそのそれぞれの作品を紹介をさせるという作業を行わせたのだが、その内の一つにジェイデン・スミス、ジャッキー・チェン主演の「ベスト・キッド」(2010,米)があり、それから何となく気になっていたので、この際、オリジナルの「ベスト・キッド」(1984,米,主演:ラルフ・マッチオ,ノリユキ・パット・モリタ)を二つ通しで観てみることにした。そして、その際にその中でどうしても両作における「車」の比喩が引っかかてしまった。そのこともあり、ここでちょっとこの二つの映画の紹介がてら、映画の中における「車」で示されるものとその社会的背景とを考えてみることにしたい。
一応、この二つの作品をご存じない方にお伝えすると、1984年に作成された「ベスト・キッド」は、原題が "Karate Kid"であり、空手を学ぶアメリカ人の青年を主人公としたアメリカ映画らしいサクセスストーリーである。
母子家庭で育ち、ニュー・ジャージーからカリフォルニアに移ってきたイタリア系の少年ダニエル・ラルーソーは、転校した高校で気になる女の子アリとも仲が良くなるものの、アリの元彼であり街の空手道場コブラ会に通うジョニーらの一群に目を付けられ、学校ではいじめられる立場に追いつめられる。
しかしダニエルの住むアパートの管理人として出会った日系(一世)のアメリカ人ミヤギにジョニーたちからいじめられているところを助けられてから、彼から直に空手を学ぶこととなり、近々に開かれる空手トーナメントでコブラ会とジョニーに雪辱を果たそうとするが・・・。
いろんな背景が映画の中でちりばめられていて、その一つ一つが小気味良い。たとえばダニエルのガールフレンドのアリはこの街ではブルジョアの出身で、ダニエルはかなり下層階級に属する場所に住んでいることとなっている。もちろん名前や顔立ちから分かるように、彼がイタリア系であることもこの映画ではポイントだろう。それに対して、アリやジョニーはWASP的な位置づけで、ダニエルはこの境界をまたぐことに四苦八苦している。
空手の達人で、ダニエルの師匠役のミヤギの立場もこれもまた微妙だ。Miyagiはえてして「ミヤジ」と呼ばれるのだが、おそらくこれはイタリア系の名前との発音の類似を暗に指摘しているように思える。日系とイタリア系の一世によくあるように、英語はそれほど得意でなく、映画の中ではたどたどしい(にもかかわらず堂々としている)言葉で相手に意を伝える。彼は以前は第二次世界大戦でアメリカ軍に属し、ヨーロッパで戦功を遂げたらしい。だが、アメリカに残していた妻と子は強制収容所に収容され、そこで医者にかかることもなく死んでしまった。ここに、父を幼い頃になくしたダニエルは、ミヤギに深い情を寄せることとなる。
アメリカにおけるマイノリティ、イタリア系と日系が心を通わせ、大きな力に立ち向かい、成功を勝ち取る。そう、これは典型的なハリウッド映画の文法で書かれた物語なのである。当時、この映画を観た人々がこれを「リトル・ロッキー」と名付けたのもさもありなんという感じである。
ただこれを別の時代の枠で考えたときにもう一つ指摘して置かなくてはならないのは、「日本」という存在だ。当時、驚異的な経済成長を遂げ、アメリカの地所を買い荒らし、かつ工業生産第一位であったアメリカを脅かしていた「日本」を、映画の文法で語り直すことで、アメリカがある意味で「日本」への友好関係を結ぼうとした試みであるとも邪推できなくもない。少数派の立場に置かれ、ミステリアスでいながらも、知恵とそして正義の拳をもったミヤギ老は、理解不能な「エコノミック・アニマル」としてのジャパニーズ・ビジネスマンよりかはずっと親しみやすい存在であり、当時の日米の間に横たわる文化的な誤解をいさめ、関係を結び直させるにはすばらしいキャラクターであったろう。かつ、当時に大流行であったマーシャルアーツ(ちなみにアメリカでは空手も中国武術も、韓国のテコンドウもすべて「カラテ」と呼びなわされていた)を鍵に、アメリカは「日系人」を自らの国民と歴史の一部として組み込もうとしたものなのである。
だが、そう思いながらこの映画を見直したときに、どうしても釈然としないものが残った。もちろん、この映画で描かれる「カラテ」の教えのステレオタイプさも気になる。ミヤギ老のあまりに典型的な拙い英語もわざとらしい。またミヤギ老の住まいもなんというか日本的というには、いろんなちぐはぐさが残る、どうしてもアメリカの持つ「オリエンタリズム」は否定しがたい。だが、それは時代が持っていた状況としてはいたしかたあるまい。それ以上に気になったのは、映画における「車」の位置づけにある。
観た方にはわかるのだが、この映画、一つ仕掛けがしてある。ネタバレ的な内容になるが、まず主人公のダニエルがミヤギ老に空手を教えてもらうことを約束した後、ミヤギ老はまずダニエルに車磨きから始めさせる。右手でワックスを円形に塗り、左手でワックスを円形にふき取らせる。"Wax on, Wax off, Breeze in, Breeze out"日本語では「ワックスを塗り、ワックスを取る。息を吸い、息を吐く」。車は4台ほど並び、その作業に一日かけさせる。その次に命じるのは、同じ要領での紙ヤスリでの床磨き。それが終わると、腕を上下、左右に振るペンキ塗り。教える約束を交わした時に「質問をせずに、言われたことを黙って従うこと」を条件としたこともあり、ダニエルはとかく黙って従うのだが、さすがに途中で嫌になって、これがなんの空手の練習なのか、ただで体よくつかわれているだけではないのかと不満をミヤギ老にぶつける。その時はじめて、ミヤギ老はワックス塗りの手の動きが、空手の典型的な防御の型に繋がることを実技で伝え、ダニエルはようやくその訓練の意味を悟ることになる。
さて、このダニエルが一生懸命に磨いた車だが、大会の直前のダニエルの誕生日の際に、ミヤギ老はダニエルにどれでも好きなものを選ぶがいいと差し出す。すべてが40年代後半のヴィンテージカー。車好きには垂涎の的のものである。それまでダニエルは(同級生や敵役のジョニーはオープンカーを乗り回しているにもかかわらず)ガールフレンドとデートするときにも母親の出すオンボロ車に同乗して出かけるしかなかった。そして彼は黄色のすばらしいフォード車を選び、ガールフレンドのアリをようやく自信を持ってデートへと誘う。
ところで私が気になるのは、この映画に一度も日本車が出てこない点である。ミヤギが差し出すのはアメリカの古き良き時代を表すフォード・スーパーデラックス・コンヴァーティブルである。アメリカの1980年代はトヨタやホンダがそれなりに人気を呼び、この映画の2年後に公開される「バック・トゥ・ザ・フューチャー」ではトヨタのピックアップが主人公マーティのあこがれの車として登場さえしていた。だが、この映画には日本車は微塵も登場しないのである。
さて、ここでリメイクの2010年版の「ベスト・キッド」に話を移そう。舞台は米国内のカリフォルニアから打って変わって、中国、北京。主人公は黒人の小学生のドレ(ウィル・スミスの息子であるジェイデン・スミスが演じている)であり、学ぶマーシャルアーツも「空手」から中国のクンフーに変わる。ミヤギ老の役もなんとあのジャッキー・チェンがやるのだから、この見事なスケールアップは大したものだと感心してしまう。
https://www.youtube.com/watch?v=2SmmxvHLsKk
ただ、残念ながらワックス塗りの話は、別のかたち(上着を脱いでは上着掛けに掛け、そして床に落として拾い、着て、脱いでは、という反復作業)に取って代わられてしまう。この作品のミヤギ老役である中国人のクンフーの達人ハン(ジャッキー・チェン)の家に車はあるが、それもぼろぼろの因縁めいたフォルクスワーゲン。中国ともアメリカとも(日本とも!)関係はない。実際のところ、この作品の鍵はハンと車との関係にある。作品で登場してから終始暗い表情のハン。彼はドレの練習の間、ずっとこの車を直し続けているのだが、大会前にドレがハンの家を訪ねると、その直した車を破壊している姿に出くわしてしまう。ドレはハンに遠地に出かけるときに、なぜ車に乗らず汽車に乗るのかと尋ねたことがあるのだが、そのときは不機嫌な沈黙で答えを得られずにおり、そしてこのときに初めて、ハンが昔に車の事故で10歳になる息子と一緒に愛妻とを亡くしていたことを知らされるのである。
オリジナルの作品では、「車」は主人公たちの未来であった。車を持つことの自由さが、主人公とそのガールフレンドの未来を約束するものであった。だが、リメイク版では(もちろん主人公のドレが車を持つには幼すぎることもあるのだが)、「車」はハンの過去を表し、破壊された「家族」をも意味する。
さて、私がここまで「車」の意味にこだわるのは、非常に恣意的な意味付けをしているのではないかと思う方もいるかもしれない。ただ、もう一つの映画の設定での事実を付け加えたら、多少考え直してくれるだろうか。
リメイク版の冒頭でドレがアメリカから中国へと移る。その時にドレのホームタウンであった街が雨の中、タクシーの窓から見え隠れする。その街こそどこであろう、あのアメリカの車生産を象徴をしていたデトロイトである。2009年にゼネラルモーターズの破綻、クライスラーの破綻、そして2013年には街そのものが財政破綻をした街なのである。
さてオリジナルでは日本に熱烈なラブコールを送りながらも、アメリカはその経済的繁栄の象徴である「車」を40年代のフォードをもって、そのアメリカと日本の絆を語らせる。ここにどうしても皮肉な笑いが忍び込まざるを得ないのだが、さらに残念なことにリメイク版では、そのような経済的繁栄の象徴である「車」はずっと後ろの背景へと下がり、しかも悲劇的な状況しか思い起こさせない。
リメイク版での救いは、ハンと幼いドレのはっきりとした友情である。中国(香港)映画の大スター、ジャッキー・チェンと、ハリウッドの寵児であるウィル・スミスの寵児のジェイデンとが(竹をつないで)手を結び、クンフーの練習を共にする。その光景に涙が誘われるのだが、その演舞を光でで映し出すのは先ほどにハンがハンマーをふるってたたき壊した「車」のヘッドライトである。そしてその後に、その車が映画の中で用いられることはない。
さて、そろそろに結論を言うと、アメリカは自国の経済的な自信をアジアの二つの国によって二度、揺るがされた。一度目は80年代の日本に。そして二度目は00年代の中国にである。その勝ち負けはともかく、このオリジナル版とリメイク版の「ベスト・キッド」を観て思うのは、一度目にアメリカがなんとか過去の栄光にしがみつきながらも耐えたその自信は、すでに二度目においてもろくも崩れ去り、そして元に戻ることは難しいだろうということだ。新しいアジアの隣人たちに生産者としての経済的な地位を譲り、共に手を携えていかなければ、自らの道がないこと、それをこの映画のリメイクのプロセスで語られているように私には思えるのである。過去に自らの未来の象徴であった「車」の比喩を用いて。その意味で「ベスト・キッド」は、明るいサクセス・ストーリーとは裏腹に、アメリカの深い喪失を示しているように思えてならないのである。