タウシグ『ベンヤミンの墓』 |
タウシグの『ヴァルター・ベンヤミンの墓標』(東京:水声社,2016年)を読み終える。
ベンヤミンは、読書家にとって非常に謎めいた哲学者/批評家である。言うことが奇天烈で、読めば読むほどに距離が遠のく気もさせられる。何かのことを述べている、その表面上の文体を追っかけていると、なぜかその文体の裏側に別の何かが現れ、いつのまにか批評の焦点はそちらに向けられている。そのようにして戸惑いながら、読み進め、戸惑いながら、彼の見たものの核心を追っかける。時にその核心とされるべき物語が、ただ奇妙な批評家の見た幻に過ぎないのではないかと思わされつつ、その幻影が、何かしら作品の、もしくは時代の焦点を結ぶときに、はじめてこの哲学者の価値が分かることになる(のだろう)。
正直言って、ベンヤミンは全集を買い集めてみたものの、私にとって見たら鬼門で、この15年もの間、そのテクストを読んでいるにもかかわらず、どうしても表面での理解で終わってしまう。奥に奥に分け入ろうとしても、なかなかにそれを許してくれない。まあ、彼の言葉がわかるいろんな精神的な状態が自分に備わっていないからなのかもしれない。そう思いながら、彼を読んでいる。
それでも、部分的に彼の言葉をヒントにする。前置きが長くなったが、タウシグ(彼もまた難解な書き手である)の『ヴァルター・ベンヤミンの墓標』(めんどくさいので私は『ベンヤミンの墓』と呼んでいるが)は、そうしたベンヤミンの残した手掛かりと、南米での歴史の残した手掛かりを追い、その幻を探す試みである。さながら追憶のように。
タウシグは、南米コロンビアのある村の片隅で採取されたインタビュー記録を再編しながら、ベンヤミンの言葉を用いてこう述べる。
「『歴史とは構成の対象である。その構成がなされる場は、均質で空虚な時間ではなく、今の時に満ちている時間である』ことを、人が認識するかぎりそうである。」
追憶はすぐれて現在のための実践であり、歴史を紡ぎだすときのその歴史的時間は「いま」によって成り立っている。
あるいは彼はベンヤミンばかりでなく、バタイユを、ニーチェを引用する。どの作者も、対象を語りながら対象の裏にある全体的な何かを語る作家であり、私たちはアレゴリーの空間の中、語られているものと、語られていないものと、いまだ語られていないものとの様々な層の中を行き惑う。さながら異文化の中の人類学者のように。
ところで、アートは、そのものの美術的価値を対象にするのでなく、アートが引き起こす創造的な喚起を対象にしながら、創出されていく。タウシグはその話術の中に、さまざまなレトリックを散りばめながら、自らの経験した異文化空間であるコロンビアの片田舎、人類学や哲学の想像力、コロンビアの人々の語り・経験を異化作用のプロセスとしてぶつけ、我々を惑わさせる。
この本を読むことが、人類学的実践を追体験させるかのような、まことにまことに稀有な本。言葉とアレゴリーの日常的な実践の一つのかたちとして、そして、語られている言葉そのものがそのものの意味だけではない、ひとつの例として。