祖母の死、そして幼年時代と守れなかった約束 |
一昨日に祖母が亡くなった。大好きな祖母だった。
危篤だというニュースを受けたのが月曜の昼のことだった。急いで駆けつけようかとも思ったが、水曜には授業がある。病院のある仙台に駆けつけて、さて、どういう予定を立てたものかとつい迷った。
実母の危篤の報を受けて、母はすでに仙台に向かったとのことだった。連絡をくれた父は例のごとく、「(お前が行っても迷惑なのだから)次の連絡を待て」と相変わらずに息子を自分の指示下に置きたがる。あるいは「忙しいのだから、無理しなくてもよい」と。違うのだ、死ぬ前に一目会いたいのだ、と伝えても返事はなかった。
父や母に問い合わせても、事実と異なることが往々に知らされる。そのようなことに辟易していたこともあり、私は仙台にいる叔母に連絡を取り、そしてとりあえず祖母は小康状態にまで落ち着いたことを知らされた。良かった。では、水曜の授業が終わった直後、すぐ仙台に向かおう。そう妻と話し、その予定の調整をしていた火曜の夜、私は父母から、また祖母の容体が急変し、亡くなったことを知らされた。
急性腹膜炎によるものとのこと。だが、祖母は昨年に百二歳で亡くなった祖父ほどでないが、九十も後半になる歳だったので天命であったのだろう。最後に会ったのは昨年の祖父の葬儀の時のことだった。だいぶ痴呆が進んでいたのだが、祖父の死はきちんと認識したらしい。祖父の死はちょうど昨年の今頃なので、この季節を思い出すかのように、後を追って亡くなった、そんな急な亡くなり方だったようにも思える。
前にも書いたが、五歳年上の姉が生来病弱であったことから、その入院につきそう母の都合で、私と妹は幼い時に祖父母のもとによく預けられた。いま思うと、私はおばあちゃん子だったと思う。幼い時、なんでもいうことを聞いてくれ、甘やかしてくれる祖母が大好きで大好きでたまらなかった。母も好きだったが、だが仕事や育児、そして姉の看護に追われ、常にいらだっていた(ように思える)母への愛情にはなにかしら怖れも伴っていた。だが、私のことを無条件に愛し、受け止めてくれた存在は亡くなった祖母だった。
小さい時に祖母に贈られた黒い自転車をよく覚えている。当時に流行っていた「仮面ライダー」をモチーフにした面が前かごに取り付けられ、私はその自転車が本当に気に入っていて、多少小さくなっても、そして飾りの仮面がとれても、小学校5年時まで乗り続けていた。祖母は欲しいと言えばいろんなものを買ってくれた。よくある話だが甘やかされすぎて、私の姉たちや妹にやきもちを妬かれた。そんな甘やかしをしてくれる祖母を、私は大好きだった。つまり私は祖母に甘やかされ、スポイルされたのだ。でも、そのような愛情をその時の私は必要としていた。
松戸にある家に祖父母が遊びに来た時に、祖母たちが来たことが嬉しく、そして帰ってしまうことを予想してつい悲しくなった。当時は私は何才だったろう。おそらく5、6歳のころだったと思う。祖母にいつ帰ってしまうのか、と思わず聞いて、姉から「そんな聞きかたをしたのでは、まるで早くに帰ってほしいと思われるでしょう!」ときつくたしなめられたことを覚えている。無理もない。だが、その時に身近にいた大人の中で、祖母だけが私を子どもとして扱ってくれた。
祖母本人のことを伝えると、かなりマイペースな人だった。
東北の裕福な一家の家庭に長女として生まれ、かなりかわいがられて育ったらしい。当時の写真には珍しい上品な白いワンピースを着た少女が、これが祖母の幼い頃であったとのこと。祖母も甘やかされ、スポイルされた少女であったのだろう。
結婚した祖父も当時は会社の出世頭であり、祖父母の将来も約束されているように見えた。だがその後に(母や叔父たちの話を伺うには)、祖父は社内政争の結果、本社の主流から煙たがれ、地方の工場に左遷された。それに伴うように祖母の実家も気弱な大叔父の下で次第に傾いていった。
そのような時代によって祖母も不本意な生活を強いられたように思える。ただ考えてみると、叔父一人を医大に、叔父二人を歯科大に、最後にもう一人を私大に、そして当時にしては珍しく母と伯母を大学に入れ、貧しいはずはない。だが、それでも私と妹が預けられた当時、破れた障子のある母屋と、土間に風呂桶を敷いた昔ながらの家につつましく暮らしていた。左遷が決まる前の祖父たちの暮らしていた生活は、母に言わせると、お手伝いさんもいて、本当に好き放題にさせてくれる大きな家であったという。つまりのこと、母も幼年時代は祖母に甘やかされて育ったのだと思う。
祖父の地方工場での勤務当時の話に、母から聞いたものとしてこんなものがある。
化学会社に勤めていた祖父は、出世街道から外れ、地方の化学製品工場の工場長となった。化学製品を扱う工場の責任者がなによりも怖れるもの、それは構内での火事である。
なにかしらのかたちで火が発生すると、工場構内全体でサイレンが鳴る。そして構内で工場長として家を構える祖父母の家にサイレンが響き渡る。
母曰く「臆病」な祖父は、そのサイレンを聞くたびにガタガタと震えだし、腰を抜かして動けなくなったとのことだった。そして、その祖父に対して、祖母は「「しっかりするんですよ、なにをしているんですか!」と強く言いつのり、立たせ、その火事に対処させるために家から追い立てたとのことだった。
甘やかされて育った後の大人にはよくあるように、祖母はどことなく激しい気性を持っていたように思える。今回の危篤の報で、祖母の様子をどことなく冷めた様子で聞いていた親戚もいたのもそのこともあってのことだろう。
この週末には葬儀がある。実のところ、父母との関係が悪く(昨晩は葬儀の場所の確認で電話越しに怒鳴り合った)、そして自分の姉や妹ともほぼ縁を断っているような状態を続けている私にとって、この「家族」での集まりが嫌いだ。そして死ぬ前に祖母になかなか会えなかった一因として、親戚内部での祖母の介護をめぐる騒動(もちろん各自が必死にそれぞれなりのやり方でかかわろうとした結果なのだろうけれども)の中を覗くことも、強い拒否感がある。私は親の愛情が不十分ながら、存分に甘やかされて育った。だから人間嫌いで、非社会的で、時には反社会的な人間であっても仕方あるまい。もちろん、これは私にそれぞれのやり方で愛情を注いでくれた祖父母や父母と関係なく、私が手元にある選択の中で自ら選び取った人間性であるのだけれども。
でも、私は祖母のために向かう。この葬儀は残されたもののためでなく、私は祖母を弔うために向かう。
祖母は、亡くなる二年前、お歳暮を贈った私に電話をかけてきて、記憶も不確かな状況で「誰も私のところに訪ねてきてくれないの」と訴えてきた。そして十分後にまた同じ電話を、それが二回続いた(もちろん祖母は仙台にいる親族から手厚い看護を受けていること、そして私に何度も電話を掛けていること自体を忘れ去っていた)。私はその時に祖母に「すぐに会いに行くから」と約束をしたのだった。
昨年の祖父の葬儀の前に私と従妹とで施設にいる祖母に会いに行ったとき、祖母はなんども「誰も会いに来てくれないの」と再度訴えていた。その時も、私は彼女に「またすぐに会いに来るから」と約束した。
私は約束を守ることができなかった。だから、そのことを謝りに行こうと思う。
(写真は一枚目は祖母が幼少の時のもの。おそらく1920年代のものか。二枚目は阿蘇の山頂にいる祖父と祖母。1991年9月時のもの。ともに祖母のアルバムの写真を携帯で撮影したもの)