王国と共和国(3):慣習と法制度 |
実際のところ、ウガンダ共和国の首都でもあり、王宮が存在するカンパラにおいて、ブガンダ王国に関連する文化的慣習というものは、近代のさまざまなデコレーションや変容がなされたあと、移民を中心とする都市民の中で根付き、生活の一部というものにもなっている。
奇妙な話だが、そもそもガンダという民族そのものが、移民を核にして形成され、他民族をみずからの慣習制度(主に土地制度)に取り込むことで成立してきた民族である(Mamdani 1970)。1920年代からのウガンダにおける棉工業の興隆は、多くの移民を招き寄せ、かつ移民は農村部においては小農として、そして都市部においては工場の労働力として取り込まれていった。リチャーズらの1960年代に行った調査によれば、ウガンダ中部であり、ガンダ王国北部のムベンデにおいて、その優に4割がルワンダ、ブルンジ(当時の国名ではルアンダ・ウルンディ)からの移民出身であった(Richards 1972)。マムダニの指摘(Mamdani 1996)によれば、それらの多くの移民労働者は60年代のルワンダ、ブルンジの独立以後に紛争が散発する状況から故国に帰国せず、ガンダへの帰化の道を辿った。多くがガンダ名を名乗り、名前に付随するクランに所属するかたちで、かれらはガンダ王カバカの臣民であることを(形式の上で)選んでいった*2。
ちなみにウガンダにおいて、ガンダ名/クラン名を名乗るというのは、なにぶんに帰属を示す以上に、政治的な含意を強く示すことにもなる。ガンダ名は民族の帰属を示すだけでなく、クランの帰属を示し、また家族の父の名前、家族内での何番目の出自となるか、そしてその家族やクランが支持する政党の所属をも暗示する。森口の報告によれば、クランでの所属はクラン長(王国政府の閣僚を担っているケースが多い)の下、ピラミッド式に父の家族・祖父方の親族・曽祖父の親族などへと出自を遡り、多くの親族を結ぶ構造になっている(森口 2012)。それらが(理想的には)一つの政治的な集団として振る舞うことが望まれる。信仰する宗教、教会や宗派、支持する政党などが、名前を名乗ることである程度、明示されてしまうということが、ガンダ民族内では往々にしてある。もちろん、これは移住歴の浅い移民たちにとってはかなり高いハードルで、仮にガンダ名を名乗っても、家族構成やクラン長の名前を聞かれることで、にわかのものであることが分かられてしまうことが多い。
また一方でガンダ王国は旧来の土地制度(マイロ制度)と首長の配置において、王国の土地税の取り立てを独立後も継続させ、1970年代のガンダ王カバカの追放まで、その王国の制度(statehood)を確保し続けていた歴史がある。この税収についての確執は現在でも続いており、ガンダ王国の所有するとされる土地において耕作するものは、ウガンダ政府への納税とはまた別に、ガンダ王国政府への支払いもまた求められるという。だが、その実体としての政治的な権力のない王国政府の要求はよほど王国政府への帰属意識が強いものでない限り、無効のものとして退けられるという。例えば、2007年に見聞した例として、ガンダ王国政府の役吏として任命されたものが、カバカが所有するカンパラ郊外のムニョニョにある漁港での税収を行おうとしたところ、漁港で働いているものたちから投石、および殴打を受けて、軽傷を負って泣く泣く戻ってきたという事件があった(*3)。ウガンダ共和国政府からすると、このような一つの「違法」行為は、税制上あってはならないことではあったが、だがその「王国制度」を表立って非難することは、いまだに大衆的にカリスマ性のあるガンダ王カバカを非難することにもつながり、それは選挙における自らの支持基盤を危険にさらす行為でもあったために、意図的に見過ごされていた経緯がある(*4)。
またガンダ系(ここにはガンダ名を名乗る二世・三世の移民も含まれる)の人々にとって、重要なこととして、結婚・出産・葬儀をめぐる際での王国政府の役割がある。
カンパラなどの都市部において、中産階級以上人々にとって結婚は二度行われるのが通常である(森口 2011b)。一度目がオクワンジュラ(Okwanjula)という新婦側の出身農村で行われる伝統的結婚式であり、二度目が新郎側の主催による教会での「近代」的な結婚式である。オクワンジュラにおいて、クランの重役などを呼ぶことが奨励されることはもちろんだが、制度として興味深いのは、教会(イスラムにおいてはモスク)での結婚において全てを締めくくる結婚証書への新郎新婦による署名は、実際にウガンダ政府の地方役所ではなく、ブガンダ王国政府が発行し、それを王国の税収の一つとしてあてているのである。市役所などへの届け出は出されることも特に必要とされず、王国の証書が主な証書として、結婚後に新居に飾られる(*5)。また出産時において、その名前とそのクランでの所属を示す出生証書は、ブガンダ王国政府に依頼すれば、それが発行される。
葬儀における民族とクランなどの個人の所属の確認はもっと密接な関係を王国政府ととっていると言える。
葬儀にまつわる儀礼自体は、これも二度以上の手続きを踏まえて行われるが、結婚式の形式と違うのは、まず埋葬(教会の神父や牧師などを伴うことが多いが死後ニ三日以内のもの)が隣人や知人を招いて行われるが、世帯主(この場合エンダ Enda という世帯集団の家長であるムクル・オゥ・エンダ)が亡くなった場合、埋葬から一、二年の期間を置いた後で、父方の祖父を同じく親族全員(エンダの上の組織であるルイリリ Luyiriri に所属するもの)が集まり、そこであらためて家長を引き継ぐものが誰かが話し合われて決められる。これをガンダではオルンベ(Olumbe)と呼び、広義での葬儀に含まれる(*6)。
このオルンベでは参加する親族が召集される時点で、自分たちの集団に属するものか、属さないものかの選定が行われる。例えば、著者が(あくまで観察者として)参加したオルンベでは、エンダの長にあたるものの最初の結婚(妻はチガ人だが、オクワンジュラも教会婚も行わない事実婚)で生まれた息子が来たときに、彼は公けにその先妻との間の息子を会合の場から追い出した。それはその息子がクランに属しているということを、エンダの長である彼自身が認めなかったからである。あるいは、オランダ人女性と結婚したガンダ人の知人がいたが、その知人は妻にオルンベの存在を知らせず、またクランはその妻にオルンベの招集をかけることもなかった。
さて、このようなかたちで形成される親族集団は、先に説明したクランの所属にも関わるが、エンダ―ルイリリ―ムトゥバ(Mutuba)―シガ(Siga)と上位の階層を伝わり、クラン(チカ)全体とクラン長(ムクル・エチイカ)に繋がり、それはカバカの配下としての位置づけを与えられる。
カンパラで、名前を尋ねられるとき、もし(男性が)ガンダのクラン名を名乗った時、周囲から「お前はカバカの男なのか。 Oli musajja wa Kabaka?」と尋ねられるのはこのためなのである。
*2 もちろん、かれらは西部のアンコレやチガの土地においては、アンコレ名やチガ名を名乗り、時には親族のいるルワンダ、ブルンジに戻ってはその土地に応じた名前で振るまうなど、かなり柔軟に所属社会を選択し自己をその社会に応じて適応させていく姿勢を保っているようである。
*3 2007年8月カンパラのN病院において。そこではブガンダ王国政府の宰相たち(カティキロ Katikiro)の会議が週一度に行われていた。また漁港など漁業に従事しているものは移民労働者(90年代からのニューカマー)が大半を占め、流動性が高く、かれらは先述した20年代から60年代にガンダに帰化したルワンダ移民たちとは異なるスタンスを、ブガンダ王国政府およびウガンダ共和国政府にとっている。
*4 そのためにムセヴェニは2011年の選挙前において王国や首長国などのそれぞれの長を対象にした法案を作成して「文化的リーダー」という呼称を提示し、王たちが政治的な権力とはまったく別の存在であることを法律の上で区分し、自らの政治的な正統性をあらためて強調していった。
*5 しかしこのことが、ブガンダ王国がウガンダ政府に代わって王国内での王国臣民の人口統計を抑えているということは限らないし、また人々にとってはそれが統計化されていることも疑問視している。結婚に参列した人々の幾人かに聞いてみたところ、王国政府は逼迫する税収のために証書の発行を行なっているのであり、ウガンダにおける地方政府は(汚職などから)それがスムーズに発行されることが望めないのだという。そして、この証書や結婚による統計は式を挙げた教会によって、信者の管理のためもっとも良く利用されているであろうというのがかれらの統一した見解であった。
*6 埋葬から数年置かれるなど、テクニカルには継承儀礼と呼んだ方が良いかもしれないが、死者を弔う葬儀的な要素も多分に含み、簡単に分けることができないので「葬儀」の一つとする。またオルンベを葬儀と位置付けるのは著者だけでなく、植民地期の初期にガンダ民族の民族誌を書き上げたロスコー(Roscoe)、そして1930年代にウガンダにて調査を行ったメア(Mair 1965)もオルンベを死にまつわり、死者を弔う儀礼として位置付けている。
(この項続く。写真は著者が参加したオルンベにおいて、屠られた牛の頭と前脚。2011年1月7日にムベンデ郊外において、著者による撮影。また、まだ提出されていない原稿なので、この頁からの引用などは控えていただくようお願い申し上げます。)