経過報告 |
タイトル「都市の政治学——ウガンダ、カンパラにおける不可視化される空間と例外状態の民族誌」
目次
序 「都市の政治学」解題 ——空間、政治、家族のブリコラージュ
第一部 都市・国家の政治学——国家と空間をめぐって
第1章 都市空間の民族誌——空間の権力の可視化と不可視化
第2章 都市と国家の民族誌——政治空間とエスノスケープの間を歩くこと
第3章 都市の政治学——暴動・民族・歴史
第二部 市民/国民の政治学——王国と共和国をめぐって
第4章 臣民か、市民か——シティズンシップと共同体の主体性を捉える
第5章 王国と共和国——ウガンダにおける「共同体」についての政治
第6章 部族と氏族——ガンダとその周縁の集団について
第三部 家族の政治学——貧困と疎外をめぐって
第7章 見えない都市と見えない市民たち——移民とスラムの不可視性
第8章 女たちは踊ることができるか?——女性の二つのシティズンシップ
第9章 家族の政治学——カンパラ移民たちの選択
1.本論文の目的
2.都市空間の経験
3. 都市空間の民族誌、風景と〈事件〉、そして〈都市的なるもの〉
4.貧困と不可視化された空間、二重の疎外としてのスラム
5.本論文の方法論と構成について
1. 本論文の目的
「都市の政治学」と題して、本論で述べることは、筆者が2006年末から2011年初頭まで計4年ほど滞在し、調査を行った東アフリカの一国、ウガンダの首都カンパラの都市空間、政治、そしてそこに住む人々の生のありようについてである。ここでは一つの民族誌としてカンパラと人々の文化・社会を描いていきたいと思うが、一方で、ある社会の包括的な描写としての民族誌としての役割だけではなく、一つの主題を抱え持っている。それは、都市空間における人間の「疎外」の経験がどのようにして形成されるかという問いだ。
都市空間や疎外と言っても、都市自体があまりに巨大な空間となり、また莫大な人口を抱えていることから、空間や疎外に関する人々の経験はさまざまであり、一概に議論できない。だが、訪れたものが敏感に感じるように、都市にはそれぞれ特有の空気があり[ベンヤミン 1975]、また歴史がある[ハーヴェイ 1999]。本論が議論することの一つは、カンパラにおける都市空間の形成が、ウガンダ特有の資本や政治の動きの中でどのようになされていったかである。筆者はこのカンパラの都市空間の形成を、「不可視の空間」としてのポスト植民地的状況における欲望の実体化として議論していきたい。そして次に、都市空間の中で触発された欲望を抱えた人々が、その都市空間の中に市民として包摂される一方で、欲望が叶えられない葛藤や抵抗など、そこでしかありえない人々の情動の軌跡を辿ることが、本論文の目的としてある。ここではその葛藤や抵抗をアフリカ近代における疎外の二重性として議論したい。この序章では、本論文の対象となる都市空間と疎外という二つのテーマについて、その課題を述べると同時に、先行研究(特にアフリカの都市人類学分野)における取組みを捉え、本論文が提起する視点と方法論を論じていく。それは都市を見るための複数のパースペクティヴ(視野)を同時に抱え込みながら、全体的に捉える試みである。
2.都市空間の経験
例えば右に 写真が一枚ある。2007年7月、私のウガンダ滞在時、カンパラの雑踏のなかで撮った写真。あの時はある原稿を頼まれ、その依頼主からの「カンパラの街の様子がわかるようなものを」という言葉を真に受けて、途方に暮れた。その時に、街をさまよっている際にふと佇み、撮った写真である。
だが、筆者がここで都市の風景を切り取り、描くにしても、街頭で出会った人々とのやりとりを書かずに描くのはやはり片手落ちになるだろう。そして、その出会いとやりとりの風景は、松田素二[1996,1999]をはじめとし、日本のアフリカ都市人類学、ひいては日本の都市人類学の伝統ともなっている。
小川さやかの『都市を生きぬくための狡知』[2011]はカンパラのヴィクトリア湖を挟んで向かい側にある、タンザニアの都市ムワンザでの、古着商人たちの間で行ったフィールドワークを基にして書かれたものである。都市人類学の伝統の一つにゴッフマンの劇場的な相互行為の理論[ゴッフマン 1972,2012]があると述べたのはハナーツ[Hannertz 1980]だが、松田にしても小川にしても、積極的に都市にすんでいるものとの自らのやりとりの経験(松田の場合は主にスラムでの生活経験)を描くことで、その記述を魅力的にさせ、かつ描かれる都市民の生活にリアリティをもたらしている[1]。特に小川は自らが実際に古着商人として商売を行い、その商人たちのお互いの「騙し、騙される関係」についてヴィヴィッドに描写する。そして、彼女の著作の読者は、まるでその古着商人たちの客たちへの交渉にたちあったかのような感覚に襲われ、古着商人たちの狡知(ウジャンジャ)がなんたるかを追体験のように知ることになる。
人類学者が自らのフィールドでの体験を通して、その社会的な事実を知っていく過程は、時に人類学者の「通過儀礼」のように語られる[ラビノー 1980,ロザルド 1998]。そこには時に致命的にもなり得るような行き違いも含まれるのだが、筆者自身の都市でのフィールドワークの初期の経験はかなり危機的なものだった。その危機は二つの形で訪れた。一つは本論の第三章で語られることになるインド系住民排斥のモーメント(2007年)であり、そしてもう一つはカンパラでの「物乞い」である。後者はアフリカでフィールドワークを行うものにとって余りに日常的なことにすぎないのだが、それでも、調査者としての筆者を追いつめざるを得ないものであったことは確かで、かつ前者のインド系住民排斥は、初期の調査の見通しをまったくできなくさせた。そしてそれはこの論文の前半部分において、都市を「政治化する空間」として描いている理由でもある。
筆者が調査を始めた2006年の暮れから2007年にかけて、ちょうどカンパラは5年に一度の選挙を終え、大統領ムセヴェニの再選が決まり、政治的に荒れていた時期でもあった。ある日(2007年1月)、下宿をしていたマケレレ大学の学生寮から、乗り合いバス(タクシー)に乗って都心に出ようとすると、途中でバスが止まり、ここからは歩いていくようにと説明される。渋々とタクシーを出て、目抜き通りのカンパラ・ロードを歩き始める。すると前に警察らが道路を封鎖しているのが見えた。そして、街はまだ興奮さめやらぬ雰囲気に覆われていた。
道路脇にたつ制服警官に、なにが起こったのかを尋ねると「いつものことだ。バカな人々のデモだ。なんでもない。」と言う。どうして人々はデモを起こしたのでしょうねと訊くと、その警官はキッとこちらをにらみ、「何だ、おまえは。ジャーナリストか何かか」と不機嫌に尋ね返してくる。いやいや、ただ道路が封鎖されていたので好奇心ですよ、と答えてその場はすごすごと引き下がった。
第3章にて説明することになるが、ちょうどカンパラを調査と、また調査資金を稼ぐための仕事で滞在していた2006年から2011年の間、デモや暴動が相次いで起き、筆者はその争乱に否応となく巻き込まれることになった。いや、正確に言うと、逆に巻き込まれないために、その騒動から距離をとらざるを得ず、その距離は調査を困難にさせた。
その一番ひどい経験がインド系住民排斥のデモ・暴動であった。インド系企業SCOUL (ウガンダのインド系財閥のメタに属する)が、ムセヴェニ大統領との癒着(公式には外資導入のための措置)とによって、国内でもっとも深い植生をもつマビラ森林地域を、低価格で売り払い、その森林地域を茶葉のプランテーションにするスキャンダルが、2007年初頭から新聞を賑わい始めさせ、カンパラの都市の空気は不穏なものになりつつあった。特に、肌の色が明らかに異なる筆者は、2007年の1月頃から、路頭でおおやけに「インド人 Muindii」と声高に呼ばれ[2]、ボダ[3]の運転手たちからは、「インド人、乗れ!」と声をかけられ、かつ三、四倍の金額を請求されることが続いた。乗ることを断っても、そこにはカネを落とさない筆者への不満と、怨さがついてまわった。そして、ボダの代わりに乗る乗り合いタクシーでも、時に筆者の姿を見ての乗車拒否や、もしくは乗れた際の車内での嫌がらせ、あからさまな陰口などが続いた。
当時の指導教官に調査の助言を求めた際に、「小川さやかのように(もしくは松田素二のように)、人々の中に入りこんで調査を行えばよい」という、彼にとって(そして「人類学者」にとって)当然至極の言葉が投げられたが、街は筆者の肌の色を理由に、急速に街の中で異物として扱われ、中に入り込むような状況ではなかった。特に調査地と定めたスラム地域は、都市の再開発の対象地域として焦点をあてられており、住民たちの間ではインド系か中国系の人間が、自分たちの住んでいる土地を買い占め、追い出しにかかるという噂がまわっていて、筆者がスラムに訪れること自体、かれらは怪訝な顔をし、その不信感は長く取り払われることがなかった。実際に、当時はスラムが取りはらわれることへの抵抗として、小規模のデモが街角で企画されることも多かった時期でもある。
ついにインド系商人に対する暴行を含む、暴動が起こったのは2007年4月12日のことである。第三章で詳述するが、デモから発展した暴動は、インド系の男性一人がなくなり、多数の傷害事件、および商店の焼き討ちが生じた。その日の午後、スラムの友人の若者からSMSで受け取ったメッセージをいまだに鮮明に覚えている。
「やったぞ、今日はやつらをようやくとっちめてやった! Yeah, today we finally defeated them!」
もちろんその友人の若者ロバートは、筆者をインド系住民と見なしていなかった。だから純粋にその喜びを伝えてくれたのであろう。だが、インド系にかぎらず、富を持つものへの怨みは、それから十年以上経ったいまでも別の形で引き継がれ、筆者たちとの関係に影を落とすことになる。
調査地にも入れず、また外出して道を歩く度にさまざまな干渉の言葉(その多くは無心とからかいだった)に疲れた筆者が行ったことは、カンパラの共通言語のガンダ語を学ぶこと、そして新聞を買って読むことだった。街を包む、この「よそもの嫌い」の空気は、どのような政治的事情で醸成されていったのか。そして、この空気は収まることはあるのか。なぜ、当時の政権はスラムの住民の権利を認めないまま、強権的な立ち退きを行い、そして住民は政治家たちのどのような振る舞いに怒りを感じているのか。その疑問を逡巡しつつ、街を歩き、その風景を眺めることから、筆者の調査は始まった。
結果として、この事件と自らの(不幸な)経験とによって、新聞を読むこと(政治空間に熟知すること)は、これは都市人類学者にとって必要不可欠のことだと筆者は考えることになった。アフリカの、もしくは第三世界諸国の都市は、国家の権力が特に集約される空間である。それは、経済的発展が進むにつれて、都市空間は資本の錯綜する関係性と政治性とを抱えこみ、その文脈を読み込むのは難しいものとなる。多木浩二が語るように「都市の変貌の要因には、力と呼びたくなるもの」があり[1994:5]、資本が政治権力を代表し、政治権力が資本を後押しする[ハーヴェイ 2013]。上に見たように、そのような政治と資本の動きは、都市の外観を変えていくだけでなく、そこに住む人々の思い(貧困の怨さ、理不尽なものへの怒り)も反映する。
資本や政治の動きを読みとるには、それは人々の生活の中に入りこむだけでは十分でなく(もちろん、人がどのようなラジオを聴き、どのような政治言説を培っているのかは別途必要とされることではあるが)、その政治性や資本が国家の政策に基づきながら、どのような蠢動をはらみ、変貌を遂げ、それが人知れずに収束したり、暴動のように弾けたりするのかを知るために、新聞の知見を活用する必要があった[4]。そして、それは都市のサブカルチャーを知るよい機会でもあった。
例えば、政府系の報道紙であるニューヴィジョン紙(New Vision)はもちろん、民間の意見を代表し、政府権力を監視していく新聞と自認するデイリーモニター紙(Daily Monitor)の政治・社会欄だけでなく、週末に紹介されるライフスタイルの欄や、隔日で週に二回発刊されるオヴザーバー紙 (Observer)では、カンパラの人々が「理想とする」生活や結婚、親族とのつきあい方などが書かれ、現実とは必ずしも一致するわけではないが、都市の人々が思い描く一種の「現実性」を筆者はかいまみることになった。もしくは毎週末に発刊されるイーストアフリカン紙 (East African)は、現地新聞の特典を最大限に生かし、ウガンダのみならず、ケニア、タンザニア、ルワンダ、南スーダン(当時、南スーダンは暫定政府)、ソマリア、中央アフリカなどの互いに関連する政治情勢を読み解く貴重な資料となってくれた。
こうした新聞が醸成する言説は必ずしも購買力のある高所得者や、中産階級だけがシェアするものではない。調査を始めた2007年当時、ワンデゲヤ Wandegeya やクッビリ Kubbiri といったマケレレ大学界隈の町に暮らしていたこともあり、大学を卒業しながらも仕事にあぶれた若者が多く街頭をさまよっており、キオスクなどの前に置かれたその日の新聞(多くは立ち読みができないように、表紙がホッチキスで留められている)の見出しを食い入るように眺め、そして喫茶店や軽食堂で隣り合わせた筆者に、数分の間だけでも読ませてくれるように頼んできては、国内の政治欄や社会欄を貪って読んでいた。
実際に政治的な統制が進んだルワンダと異なり[近藤 N.S.]、ウガンダにおいては、誰もが政治の話(特に現政権に対する不満など)を好んだ。それは日本の学生たちの政治的無関心とはまったく異なる、異文化の風景でもあった。酒場や街頭で多くの人々が主要な政治家たちの名前を並べ、先の選挙の問題と、今のムセヴェニが主導する政治の未来について議論をしていた[5]。
ウガンダの人々のこうした政治的関心の強さは、この国の十数年にわたる内戦(1973~1986、もしくは北部・東部のLRAによる内戦1986~2007)[6]の経験を反映している。選挙時の新聞(後のⅡ-2節参照)でも語られる、野党、もしくは与党が選挙に負けた場合に「密林に入り、政権奪取を謀る」という政治的言説の背景には、政権交代による混乱や内情不安の記憶が残っている中高年の人々の心情に訴え、同じことが起こらないような「公正な選挙」を想起させる働きがある。かれらにとって、安定した政治は生活の基本的なインフラの一つである。政治によって、自らの都市での住処を失くし、また職場での同僚たちとの関係性も変化していく。自らの所属する民族や氏族、もしくは宗教が、政治的な変動とともにその関係性を変えて、人々を政治的存在へと変えていくのである。
だが、本論文での2007年当初に見られたような政治的に先鋭化された意識は、徐々に経済の問題と取って代えられ、2020年現在は当時と異なりそこまで激しい政治的な空間の発露(デモ・暴動など)はカンパラでは見られなくなっている。ただそれでも、デモや暴動、選挙、そして新たな政治的な法案の提出などは、都市の空間を新たに創りかえるようなエネルギーを発し、その瞬間に〈事件〉は世界を変貌させていく。筆者が都市空間における政治の動きに注目するのは、過去に政治と都市の関係の研究を行った先達たちの見識(特に革命とパリに関するもの)に導かれながらも[ハーヴェイ 2013,2017;貴安 2011;マルクス 2008;ルフェーヴル 1975]、そこにたまたま居合わせた当事者として、それらの事件を基に都市空間にかいまみえた政治性や、人々の都市に求める所属性を明らかにしたいからである。そして、それらは過去のイギリスの都市人類学者たちが試験的に試みたような、「部族」ごとの関係性による都市の政治性(City Politics)の単純さとは明らかに異なり[La Fontaine 1970;Southall & Gutkind 1957]、歴史としての都市の姿と、非常に不明確な民族性とに分け隔てられ、独特の政治空間を、その折々に創出している。
おそらく、こうした都市の政治空間としてのパースペクティヴィズムを民族誌の中に落とし込み、一つのリアリティを作り出そうという試みを先鋭的に為している人類学者はタウシグであろう。タウシグは、その代表的著作『シャーマニズム、植民地主義、そして野人 Shamanism, Colonialism, and the Wild Man 』[Taussig 1987]の中で、複数の人々の語りがどのような(植民地的な)歴史背景を持ちながら、それぞれのリアリティ(森の景色、天使の像や薬草、呪術)に結びつき、ペルーの都市文化を築き上げているかを表現していった。モノや現実の歴史的・社会的背景を分厚く書き連ねながらも、それを表層の部分で横断していき、一つの都市文化の現実として繋げていく彼の書き方は、文化批評の中に身を置きながら、都市の風景を全体的(ホーリスティック)に、そしてその流れてゆく時代の空気そのもの自体を言語化して、記述していく批評家ベンヤミン[大城 2006;ベンヤミン 1975]の影響を強く感じる。事実、タウシグがベンヤミンへのオマージュを端的に示した著作『ヴァルター・ベンヤミンの墓標』[タウシグ 2016]において、タウシグは彼の手法を以下のように紹介する。
美しさと死と無名性の入り混じったものとして、空間と場所が感覚されるのは、そのときだ。わたしは、ベンヤミンが理解の技術として使った寓意(アレゴリー)の概念に注目したい。死と恐怖に呪縛された状況下では、人間世界はわたしたちが「静物」や「風景」と呼ぶものの中で凍結される。・・・(中略)・・・突如として、あらゆるものが一斉にじっと動かなくなって凝結し、すさまじい静けさの中に歴史は包みこまれる。・・・(中略)・・・すばやく動くイメージの群れがある一方で、じっと動かない風景が存在している。なんと奇妙なことだろう。[タウシグ 2016: 54]ベンヤミンを引用するタウシグにとって、彼が訪れた土地の風景は、歴史の寓意(アレゴリー)と化す。それはベンヤミンの墓標を取り囲む静寂の風景のみならず、「悪魔の契約」と近代化によって荒れ果て、都市インフラのレンガのために農地の土を売りつくしたコロンビアの農村部や[2016:117ー156]、タウシグの生まれ故郷のオーストラリア、シドニーの浜辺とベトナム人の漁師たちだ[2016:162-165]。いずれもが、調査者ー人類学者が「見た」景色やモノを写真の中の風景のように凍結し、その一瞬を寓話としながらも、歴史性が民族誌的に読み解かれていく。
オスカー・ルイスの『貧困の文化』にしても、おそらく民族誌的に風景を切り取り、描くことによって、寓意を打ち立て、その風景と寓意に一つの時代性と都市性/社会性/歴史性を代象させる手法は、民族誌の技術として人類学の中で長らく培ってきた技術でもある。たとえばそこには「文化の解釈」のクリフォード・ギアーツのバリの風景や歴史[ギアツ 1987(1973);1990(1980)]、もしくは構造主義の手法をそこに投じたサーリンズの『歴史の島々』[サーリンズ 1993]、もしくは最近の民族誌の試みではキャスリーン・スチュワートの『道路際の一片の空間 (A Space on the Side of the Road)』[Stewart 1996] 、アンナ・ツィンの『ダイヤモンド・クイーンの領地にて (In the Realm of the Diamond Queen)』[Tsing 1993]、ジョアオ・ビールの『ヴィータ:社会に遺棄された者たちの生 (Vita: The Life in a Zone of Social Abandonment)』[Biehl 2013]、アダム・アッシュフォースの『マドゥモ:呪われた男 (Madumo: A Man Bewitched)』[Ashforth 2000]、そして日本では、青木深の『めぐりあうものたちの群像』[青木 2013]にしても、空間や場所が風景として切り取られ、ある切り取られた時期(それは人類学者が「調査」において立ち会った/文献や資料で甦らせることのできた時期でもある)と人々に、その当時の時代性を代表させて、民族誌としてその場所の現実を再現させる手法でもある。
したがって、筆者が本論文で行おうとしていることは、こうした先行の研究群を参考にしながら、調査者として立ち会った都市のいくつかの風景や事件、そしてそこにまつわる人々を一種の寓意や「記号」として切り取りながら、時代性と社会性、そして広い意味での都市性を、語らしめることだ。だが、多くの歴史家や民族誌家たちが苦しんできたように、ある現実の事件を取り上げながら、そこに立ち現れる世界を表象しようとするとき、われわれはある種のジレンマに悩むことになる。それは風景や事件の持つ偶有性と一回性の現実をどのように、普遍的な歴史/社会理論へと落とし込むことができるのかということだ[7]。現実の人々には、固定化され、民族誌的に演出化された文化観は必ずしも共有されておらず、また出来事は偶然に導かれ、歴史の法則性に必ずしも一致しない[中村 2013]。人間も出来事も、切り取られた風景にそのまま留まり続けるような、歴史や法則の従順性にそぐわないエージェンシー(行為主体性)としてある。さて、ドゥルーズは、このような矛盾する出来事や歴史・世界との関係を、上記のタウシグのベンヤミンへの敬意(出来事を寓意化し、歴史を語らしめる方法)とは違うかたちで、次のように表現している。
主体化のプロセスのかわりに、むしろ新しいタイプの〈事件〉という言い方をすることもできるでしょう。〈事件〉をひきおこす状況や、その中に〈事件〉が回収されるような状況に訴えたところで説明のつかない複数の〈事件〉。〈事件〉の出現は一瞬の出来事です。重要なのはその瞬間であり、とらえなければならないのはその機会なのです。[ドゥルーズ 1996: 291]
ドゥルーズのその〈事件〉は、人類学的に語られ、民族誌の中の描かれる人々の「主体」(この場合の主体は前期フーコー的な意味での従属的な主体とは異なる)やその行動の不可測性でもある。そして〈事件〉は、民族誌の中で描かれる「世界」の中の一片の空間での出来事である。〈事件〉は世界を代象するが、だがその〈事件〉そのものは、一つの存在として「反抗」の可能性も内包する。そして、〈事件〉によって導かれ、描かれる世界は、すべて不可測性の潜むモナドによって構成された、ダイナミックな空間である。
世界の存在を信じることが、じつは私たちに一番欠けていることなのです。私たちは完全に世界を見失ってしまった。私たちは世界を奪われてしまったのです。世界の存在を信じるとは、小さなものでもいいから、とにかく管理の手を逃れる〈事件〉をひきおこしたり、あるいは面積や体積が小さくてもかまわないから、とにかく新しい時空間を発生させたりすることでもある。[ドゥルーズ 1996: 291]その〈事件〉から構成されたダイナミックな世界、筆者はここで、その世界を「都市」と言い換え、ドゥルーズの言及する〈事件〉を描くこと(それには再現のない個別性と偶有性が含まれる)で、「都市」の存在を信じ、新しい時空間を発生させることを民族誌で試みたいと思う。都市という世界を、いくつもの〈事件〉で切り取ることによって、その描写は必然的に分断され、コラージュとなり、普遍的な記載から遠のくことにもなるかもしれない。しかし重要なことは世界の存在を(私たちが想像するそのあり方で)信じることであり、そして社会科学の責務として、そのあり方や存立性を、部分的に立証していくことである。本論文では、第一部の第三章で暴動、第二部の底流となる内戦の記憶、そして第三部では家族の離散などの〈事件〉を扱いながら、日常との対比の中からのカンパラの都市空間としての特殊性を論じていく。
また、本論文は、各章においてそのテーマに即したカンパラの都市の日常的風景(著者は民族誌的デッサンと呼ぶ)を描くことになるが、その歩き、描いていく最中に出逢った出来事や人々、そしてある空間に焦点をあてていくことで、カンパラの〈都市的なるもの〉(“the Urban”)を表していくことになる。
〈都市的なるもの〉(“the Urban”)は関根[2004]からの借用である。関根はルフェーヴルやドゥルーズの述べる都市や資本主義の中でモナド化する個とその共同体の喪失という問題観点を共有しながら、〈都市的なるもの〉について以下のように述べている。
現代においては、世界全体がいわば都市になりつつあるといっても過言ではない。都市が社会を埋め尽くし、差異によって存立していた都市がその力の増大・浸透によって差異の消失を帰結するという逆説を演じているのである。その結果、少なくとも目に見える空間自体としては差異の斜度がきわめて見えにくくなり、都市が都市であることの不明性に直面していると言えよう。斜度はどこへ行ったのか。都市存立の不明性は私たちの生き方の発見の不明性にも関わってくる。生きられる場所はどこに行ったのか。[関根 2004:1-2]
ここで述べられる「都市存立の不明性」は、本論の「空間の不可視化」という問題意識とも関わっている。そして、本論でのカンパラの〈都市的なるもの〉とは、人びとの政治性(ポリティックス)と欲望、移動、そして市民性(シティズンシップ)の希求に関わるものでもある。
4.貧困と不可視化された空間、二重の疎外としてのスラム
さて、都市空間の民族誌の方法論やその中にある〈事件〉、そして都市への視線と同時に個の存立を不明視させる〈都市的なるもの〉についての言及を前節では行った。本節では筆者の主要な調査地であるカンパラのスラム、ナムウォンゴ地区での経験に触れ、そこから見られる二重の疎外というテーマについて述べる。これは、〈都市的なるもの〉から拡散していく都市空間の問題でもあり、また現代における「貧困の文化」の一側面でもある。
筆者が、その事件に直面したのは2006年から2011年の4年の滞在を一度終えて、再調査のためにナムウォンゴに再び滞在した2015年8月のことである。2007年から知り合い、それ以来親しくしていたナムウォンゴの住民のカンバスの部屋に一カ月半ほど居候していたわけだが、ある日、薬で半狂乱になった二十代の女性がその仲間たちと一緒に大挙して部屋に訪れた。聞くと彼女はカンバスの末娘のエリザであり、そして発狂したために仲間たちの住んでいた部屋から追い出され、彼女はスラムに住む両親のもとに送り返されていたのであった(事件の経緯や詳細については第9章で述べられる)。
あいにくとエリザの両親であるカンバスのその妻マウーアは十数年前に離縁をしており、二つの家に分かれて暮らしていた。またカンバスもその日は街に出ていたこともあり、エリザは母マウーアの下に引き取られることになったが、次の日にはまた姿をくらまし、行方が知れないものとなった。
スラムに限らず、カンパラでは子どもたち(たいていは十代の女子である)が途中で学校を退学し、その後に家からも飛び出して行方知らずになることが多いという。後で(第7章/第8章)述べるように、こうした行方知れずになる子どもたち(多くは娘たちである)は、たいていスラムに住む貧困家庭か、もしくは片親、両親が何らかの理由(エイズや内戦などによる死亡)で不在であり、親戚の家などで預けられている状況にある。そして、そのような貧弱な親族や隣人のネットワーク内に生きている人々は、カンパラにおいては「移民」という立場にあり、その社会的基盤の脆弱性が再生産される理由の一つともなっている。
また、都市空間の中での匿名性(関根の言う〈都市的なるもの〉の不明性)は、その行方の知れない子ども/娘たちの出奔を促進していく。そして、子どもたちの出奔や、自らの生き方の存立を不明視させるスラムや郊外などの状況は、カンパラにおける貧困の不可視化と疎外とに関係している。筆者が第二部の政治、第三部の家族を主題で提示する議論は、この人々の都市空間における疎外の経験である。筆者はそれをアフリカ近代における二重の疎外と呼びたい。
サハラ以南アフリカにおける貧困を主題化するとき、特にスラムという空間を対象化する際において、「貧困」という経験はア・プリオリに本質化されがちである[8]。このような「貧困」の本質化はアフリカなど第三世界への援助の必要の訴えとあいまって、NGOや国際機関での広告、また報道などのメディアにおいて、われわれに身近なイメージとしてある[i.e. 藤原 2010;榎本 2006]。だが、多くの貧困に関する経済学・社会学・政治学・人類学などの研究から見るように[セン 2000;リスター 2011;ポーガム 2016;江口 1998;Perlman 1980]、貧困はたんに経済的・物質的な困窮からなるものでなく、また概念自体を定義することも容易ではない。例えば、センの研究では経済学の枠組みの中でも「権原」(ある財に対するアクセスの権利の保有)や「潜在力」(一定の条件が満たされたときに発現する能力)という用語を用いながら、貧困が普遍的な経済的現象というよりも、地域社会の文脈の中で特定の人々に対して形成される現象だということを説いている[セン 2000]。またイギリスの貧困研究の文脈において、リースは「絶対的」貧困と「相対的」貧困という、貧困論の避けがたい二分法があることを指摘しながら、貧困問題が社会的・政治的排除を含むものであり、包括的な理解がなされねばならない現象であることを指摘している。
アフリカにおける「貧困」は、植民地主義的な文脈から発して以来[Iliffe 1987]、これまで世界の視線を集め、援助の対象とされてきたともいえる。だがその一方で、その経済的な成長(/停滞)だけが注目されることによって、またそれらへの援助の有効性(もしくは失敗)が強調されることによって、アフリカの人々の貧困、また疎外の経験が等閑視されてきたことは否めないであろう。日本におけるアフリカ研究が果たしてきた役割の一環は、そうした「貧しい」とされるアフリカの人々の生活(特に「物質化された文明」から遠くに位置する狩猟採集民や牧畜民など)を拾い上げることによって、固定化された「貧困」観を揺るがせ、オルタナティブな「豊かさ」を示唆することにあり、それらは現在に至るまで引き継がれている[9]。
だが、その一方で、ファーガソンがその著作『地球の影 Global Shadows』で論じたように、現代における新自由主義経済の席巻は、サハラ以南のアフリカ諸国(特にファーガソンの扱う南アフリカ周辺の南部アフリカ)において、すさまじい格差を引き起こし、また各国内での資源採掘や商業資本による経済的な利潤はいわゆる「グローバル経済」の中で吸い取られて、「近代」を目前にしながら、そこに参入できないという矛盾を、アフリカの人々に負わせている[Ferguson 2006]。こうした資本主義社会が必然的に抱え込むであろう疎外性の問題は、経済学や社会学から早くに指摘されてはいた。特に社会学者の見田は『現代社会の理論』において、マルクス主義的な見地から、第三世界に住む人々が資本主義経済(貨幣経済)の活動に引き込まれることによって、当初にもっていた原的な生産から引き離され(一次的な剥奪)、その上で世界経済の構造の中で、低い労賃金に抑えられることから、結果的に貧困を強いられること(二次的な剥奪)を指摘し、それを「二重の剥奪」と呼んだ[見田 1996:103-108]。
上記で述べた、カンパラのスラムや郊外において失踪する子どもたちの経験は、このような強いられた都市空間での近代性と新自由主義に拠っている。武内が述べるようなアフリカのポストコロニアル家産制国家は、土地を基盤とした親族・氏族社会(別の言葉で言うと「部族社会」)を基盤とした家産制度が、植民地権力によって植え付けられた行政機関によって運営され、それが現代アフリカ諸国における内的な分断を生み出し、紛争の原因となってきた[武内 2009]。だが、そうした土地から切り離された移民/難民の人々は、都市のインフォーマル・セクターの中で細々と生きながらえながらも、ポストコロニアル家産制における財にも、また都市空間で頻繁に見せられ、近代的な自由の中で約束される財にも無縁な存在としてある。
また、都市空間の中で約束された近代的な自由が見せられる一方で、スラムのような周縁的な場所において、その約束は決して果たされることがない。明るい未来と機会の平等を呼ぶ開発政策が声高に呼びかけられる中、それらにアクセスする権原が、社会的にも経済的にも根源的に奪われている状態は、アフリカ近代の都市空間における二重の疎外として捉えられよう。本論文では、ポストコロニアル家産制国家の中の親族・氏族・民族・政治的なつながりから疎外された状況を第二部で、そして近代性から疎外された状況を第三部で述べていきたい。
5.本論文の方法論と構成について
さて、上記に述べた問題関心と重なりながらも、本論文での方法論と構成について述べていこう。都市人類学と民族誌の関係について、1986年のいわゆるライティング・カルチャー・ショック[10]以来、問われ続けつつも、答えの出ていない問いがある。それは都市人類学、ひいては文化‐社会人類学そのものの方法論への問題とも重なっている。ここではその都市人類学の方法論の問題を三つに分け、それぞれを民族誌の方法論と重ね合わせながら説明していきたい。
② 政治:第二に、都市という大規模な集団の中における社会をどのように想定するのか。それは個と社会がどのように結び付けられるのかの政治についての考察を行う必要がある。特にウガンダにおいて人々は、1960年代から断続的に続く内戦、また80年代からのエイズ禍などの危険にさらされてきた。そのために都市空間においてひときわ政治が社会を束ね、人々の身の安全を保証してきた経緯がある。第二部では都市の民族誌の中でも政治人類学の伝統を拾いながら、シティズンシップをキーワードにウガンダの具象の政治について議論を進めていく。
だが、本論の主題はまぎれもなく「都市の政治学」であり、拠って立つ方法論は人類学である。その理由としてあるのは、都市という莫大な規模の集団を抱え込む空間において、その集団間の政治力学が、個々の生の質や方向性を定め、「人間」のあり方を規定していることにある。都市空間も、その中で蠢く政治(力)学(politics)も、地理学や政治学という枠組みや規範からはみ出し、正史には記録され得ない活動を生じせしめる。つまり、地理学や政治学の対象となる前の人々の動きや語られない歴史(主に個人史)などを捉えることが、人類学の生業であり、都市の政治の基盤を担っていることを指摘したいのである。本論が行うことは「都市」にしても「政治学」にしても、人類学の従来の農村の同質的な社会の対象性を飛び越え、その上で人類学ならでは可能となるミクロの政治的次元にある行為主体[田中 2006]を捉え、記述することである。そして、そのミクロの次元の政治は人類学の古典的な一分野である政治人類学の主題とも、また90年代以降に議論されてきたグローバル化と人類学のテーマとも関わってくる[松田 2006]。
だが、そのミクロなものを整然と観察するのは困難な課題だ。それは参与観察などによる調査の困難性だけではない。ライティング・カルチャーですでに示唆されたように、個人の生活や、それをとりまく家族や近隣住民たちの相互干渉など、人類学の調査において観察されるミクロの次元は、その実、現象の背後にあるグローバル化の問題を指摘せねば、「文化」やその意味を語ることが難しい。例えば、カンパラのスラムに住む人々はどこから来たのかを考えれば、数百キロメートル離れた各隣接国の内戦の歴史に言及せずに語ることは難しいし、かつ都市生活そのものが、その流通する商品やさまざまなグローバル化の影響を受けてもたらされたインフラストラクチャー(そしてそれに伴う貧富の格差)を考察せずにはいられない。クリフォードの議論に従えば、人類学が旧来に対象としていた共同体は、歴史も含め、それぞれに異なるさまざまな地域的な位相が混在している[クリフォード 2002、2003]。だが、そのすべてのルーツを辿り、考察することは不可能に近いだろう。
こうしたグローバル化と近代に伴った文化‐社会の混淆性や複雑さを強調し、そこに一貫した論理性が見いだせないことを指摘して、近代性(モダニティ)、もしくはポストモダニティとしての社会を詩的に描くことに意味がないわけではないだろう[クリフォード 2003;古谷 2001]。だが筆者が執る方法論は、ストラザーンが「スケール[11]の切り替え」と呼ぶ、ある視点(/パースペクティヴ)の視野から見える現象の規模(/スケール)の異なりによって、分析の対象の規模(スケール)を切り替えて、その位置(/ポジション)から見えるもののそれぞれの秩序を描いていくことである[ストラザーン 2015]。本論で具体的に行うことは、本来はお互いに混在し、見分けのつかないかたちで営まれているウガンダ、カンパラの都市の人々の生活を、三つの異なる視点で分け、整理し、描いていくことだ。その三つの異なる視点とは、先に述べた空間、政治、個の三つのことである。本論は、こうしたスケールの切り替えにより、三つの部に分け、かつそれぞれの部が三つの章(先行研究の考察、先行研究に対する人類学的な考察の意義、事例の検証)によって構成される。論文の構成上、序論(全体の構成とその意図の説明)と結論(本論全体にわたっての議論の検証)、そして終章(書き残したこと、また現在のカンパラの状況)をそれぞれに加えることにより全部で12章の論説によって成立する。
三つのパースペクティヴである空間、政治、家族については、ポストコロニアル的な状況にあるアフリカの「都市」という限定性の中で議論されていく。つまり、ウガンダのカンパラの空間、ウガンダのムセヴェニ政権による政治とガンダ民族を中心とするシティズンシップ、またカンパラ、ナムウォンゴ・スラムの家族の生活誌が、それぞれの部の中で事例として取り上げられていくことになるが、筆者の参与観察の結果として民族誌的にそれぞれ描かれることによって[12]、筆者は、スケールの切り替えが実際に調査者、被調査者の中で矛盾なく、現在の生活の中に反映され、都市世界の一部として営まれていることも指摘したい。
また三部がそれぞれ三つの章に分かれる理由は、それぞれのスケールの具体性(カンパラの都市空間、ウガンダの政治組織と現代史、カンパラのナムウォンゴ・スラムの成り立ちと移民たちのライフ・ヒストリー)もあるのだが、その具体性を定める方法論や、それに伴う先行研究(アフリカの都市研究や人類学という限定性はあるものの)をなるべく忠実に汲み取り、批判的に言及しつつ、いままで描かれていない民族誌の在り方を模索するために行った結果としてある。
さてこれらの解題の冒頭において、すでに本論の宿命はおそらくいくぶん明らかであろう。本研究は都市空間と政治というテーマを取り上げるに当たって、包括的な視線を志しながらも、その大きな視野において不可避的に、つぎはぎのようにある視点からある視点へと移り渡り、語ることで全体をみようとしている。後に述べるオングは、民族誌の中で経済的な現象を国家・トランス国家(national/trans-national)レベルで捉え、表現するアプローチを「鳥瞰的なもの」と呼んだ[オング 2013:**]。
だが、その鳥瞰的なオングのアプローチに対して、本書がとるのは都市、国家、親族、家族などのそれぞれのレベルにおいての観察した事象を描きつつ、それらを全体の絵の中の一部として位置づけようと方法である。それは複数の異質なものをつなぎ合わせるブリコラージュ(レヴィ=ストロース)であり、もしくはアッサンブラージュ(アッサンブラージ)の手法としてある[トリン 1995;チン 2019]。だが、その個々の事象の関係性は実際にあり、それらは全体を取り巻く事象の連接部分として機能している。本論が民族誌的に重点を置いて描くのは、事象そのものだけでなく、事象を結ぶ連接部分(階層・民族・空間)である。それらの連接部分となる分析については、各部の終わりにそれぞれ明らかになるだろう。
第一部の第1章と第2章においては、都市空間についての先行研究(第1章:思想性と物質性、第2章:ランドスケープとスラム)を併記しながら、カンパラの都市空間についての説明を7つの「民族誌的デッサン」と呼ぶ描写を行っていきたい。それによって本論の基盤(ある意味、文化人類学における「文化」理論の基礎的な説明)となる「都市空間」の議論を行っていく。
第3章では、筆者の調査期間中の2007年から2011年の間に観察された三つの暴動の経緯を説明し、都市における政治的デモと暴動についての考察を行っていきたい。それは第1章、第2章の都市空間の中で、描かれた「インフラストラクチャー」や「ランドスケープ」としての都市が、どのように機能的に、社会的な変動と結びつくかについての試論である。
第二部において議論されるのは、ポストコロニアル家産制国家において、そしてその都市部において、民族・親族など社会的紐帯がどのように形成されているか、また「民族」に関する政治空間がどのように形成されているかについてである。ここでは、ウガンダにおける伝統的な政治組織である「王国」とまた近代的な政治組織である「共和国」との対比を通して、政治主体性について考察を行いたい。そのため第4章で述べられるのは、第一部において言及された、アフリカにおける政治的な集合的主体となる「民族」、また地域的な共同体についてである。マムダニの『市民と臣民』において、アフリカの近代国家は「分枝国家」と指摘され、その二重性はさまざまな研究者によって議論されてきた。第4章では、その理論的な考察における矛盾点も含め、アフリカにおける「分枝国家」論がカバーする射程と限界とを指摘していきたい。
翻って、第5章で行うのは実際のウガンダにおける「王国」と「共和国」、特にカンパラにおいては「ブガンダ王国」と1986年以来、大統領ムセヴェニが率いるNRM政権による対比である。その現実の政治が、いかに人々の共同体に関する考えに干渉し(もしくは干渉せず)、現在の都市、特にスラム地域における社会保障を形成しているかについての考察を行う。
第6章では、「王国」の範疇を超えて存続する、ウガンダにおける「民族(部族/氏族)」についてのポリティックスである。この「民族」のネットワークが、以下に都市において一つの社会保障的な何か(ケアの共同体)を生み、シティズンシップ(都市空間/近代における)の構成要素となっていることについて議論していきたい。そして、その社会保障の制度が「家族」へと帰結していく状況を、王国、共和国の二つの系統から考察していく。
第三部においては論じられるのは、第一部の都市空間、第二部でのポストコロニアル家産制の政治空間の双方から排除された人々である、スラムにいる移民たちの家族集団、および個人の選択についてである。第7章においては都市空間から排除された(ようにみえる)、不可視の空間/集団としてのスラム/移民について論じる。空間のアーバナイゼーションが進展することによって、スラムという近代においてイレギュラーな、ある種の「農村」空間は排除されていく。その際に排除されるのは、空間のみでなく、そこで代象される共同体も含まれる。新しい都市計画と再開発に伴うスラム・クリアランスは、人々の共同体をばらけさせ、都市空間の統治に適した単子化された個人を求めていく。
その単子化された個人として、もっとも激しく新自由主義の暴力に暴露され、そしてそのためにシティズンシップとしての庇護を求めるのは、クラブなどにたむろするバー・ガールたちである。彼女たちは、先に述べたようにスラムや郊外などの都市空間の周縁において、二重の疎外に辟易し、「自由」を求めて、家族・親族・氏族を離れ、都市空間の中に身をゆだねる。だが、そこでも疎外は二重性をもって付きまとう。伝統的な「家族」という共同体に戻るか、もしくは自らの身体を資本の一つとして、自由な性と誘惑の共同体の中にとどまり続けるか。二つの葛藤の中で、失踪する娘は「母」か、「女」かの選択を迫られる。第8章で述べられるのは、「家族のシティズンシップ」と「性のシティズンシップ」の二つの可能性の間で、踊り、その主体性を常に変え続けていくカンパラの貧困層出身の女性たちについてである。
第三部の最後の章である第9章で述べるのは、こうした都市空間の中で不可視化されたスラムとその住民たちの家族についてである。スラムにいるいくつかの家族たちのライフ・ヒストリーを辿りながら、かれらが都市空間と二重の疎外から、どのような選択を手繰り寄せ、自らの未来にむけてどのような生活を成しているかについてである。
その上で、上記で触れた、この行き場のないアフリカの都市空間と近代性が、どこに向かうのかを考えるべく、第10章にて本論の結論、都市空間と二重の疎外性について改めて考察していきたい。そして終章においては、エピローグとして本論で主要な事例として扱った、ナムウォンゴ・スラム、そしてカンバスとその家族の現在について述べたいと思う。
第一部 都市・国家の政治学——国家と空間をめぐって
第1章 都市と国家の民族誌——空間の権力の可視化と不可視化
1.「都市の政治学」解題①:4つの先行研究群と7つのデッサン
まず「都市と政治学」の解題の先行研究として、ここでは四つの研究群を取り上げる。本章である第1章では、まず都市空間に関する二つの研究群(思想性と物質性)を取り上げながら人類学的見地から都市空間についての考察を進めていく。そして続く第2章ではまた別の系統(ランドスケープ、スラム)に分かれる都市に付随する動く(歩く)人々から見た都市と政治(人類)学についての考察を進めていきたい。この二つの章では本論の舞台となるカンパラという都市を知ってもらうために、都市空間を民族誌的に、それぞれの先行研究のアプローチを踏まえて描写していく。これを筆者は民族誌的デッサンと呼ぶことにしたい。都合としてカンパラについての七つのデッサンを読者は目にすることになる。
最初に議論するのはフーコーの影響を受けながら近代空間としての都市を描いたポール・ラビノウの『フランス的近代 French Modern』[Rabinow 1989]である。ここでは18世紀以降に世界を席巻した(つまりグローバル化の原動力ともなる)「近代性 modernity」と都市空間の議論を人類学の文脈で追っていく。ここでいう近代性とは、フーコーが『臨床医学の誕生』[1969]と『監獄の誕生』[1977]で嚆矢とした、空間と権力の議論、また権力の(による)可視化と不可視化の問題でもあり、都市空間がどのように政治の問題と接合していくかをみるために、必要な考察としてある。
次に取り上げるのは、地理学者デイヴィッド・ハーヴェイと人類学者ペネロープ・ハーヴェイの、二人のハーヴェイの研究[13]である。デイヴィッド・ハーヴェイはマルクス的な伝統から見た資本と都市空間の関係について述べる一方で、都市の(ポスト)モダニティについて重要な問題提起を行っている。それらの都市空間の議論を踏まえながら、近年の社会科学および人類学の都市研究の議論が組み立てられてきていることも指摘したい。そして、その上で、近年に議論されている「インフラストラクチャーの人類学」の嚆矢となったペネロープ・ハーヴェイの議論を挙げながら、交通や通信によってダイナミズムに編成されていく都市空間についての説明を試みる。
ここから第二章に移るが、三番目の議論は都市論を語るにあたり避けられない、ベンヤミン[2003]やセルトー[1987]の方法論である。ここではマレーとマイヤースによる編書の『同時代アフリカにおける諸都市 Cities in Contemporary Africa』[Murray & Myers 2006]を検討しながら、ベンヤミンやセルトーの方法論がどのようにアフリカ都市に適用されうるのかについて考えてみたい。時に「詩学」とも見なされるベンヤミンやセルトーの思考法がなぜ、社会科学的な分析に反映される必要があるのか。ここで考えるのは、都市をみる視野が、先に指摘した二点の理論性と併せて、「上からの権力」と密接に結びついていることにある。だが、実際に都市を歩き、そこで生を繰り広げている人々の視線(別の言い方では「下からの権力」)は、検証しにくい領域として意識される。ベンヤミンとセルトーの批評が鋭いのは、その都市を歩くことによって得られる視野が、都市に住まう者たちにとっての「実践」[ブルデュー 1988,1990]ともなり、「都市」を築く行為の一つとして捉えられることにある。われわれは都市を歩くことにより、都市を内部から眺め、都市の一部として、意味や記憶、そして欲望を、都市の表象に埋め込んでいく。いうなれば「都市」という現象を、都市を歩くわれわれ(都市の住民、および調査者たち)が創りあげているのだ。そのアフリカの現代都市における試みをここでは検証する。
最後に考察を進めていくのは、アパルトヘイト後の南アフリカ、ヨハネスブルグのスラム、ソウェトを描いたアダム・アッシュフォースの『南アフリカにおけるウィッチクラフト、暴力、そして民主主義 Witchcraft, Violence, and Democracy in South Africa』[Ashforth 2005]である。この最後の本の紹介で、人類学における都市空間の捉え方と民族誌のあり方について、一つの道筋を示したい。
2.「都市の政治学」解題②:近代と都市空間
俗に言われるポストモダン地理学の興隆と都市地理学における「空間論的転回」[加藤・大城,2006:ii, 196;上野 1999,2000]はイギリスの地理学者デイヴィッド・ハーヴェイの一連の著作[1999; 2005; 2006]によって注目され、人文地理学のみならず、都市論にも旋風にも似た大きな影響を与えた[吉見 1987,2003]。だが、日本でその旋風を起こした立役者でもある加藤らがいうように、ハーヴェイの著作はフランスの思想家ルフェーヴルの遺産を忠実に継いだものと言える[2006:188-189]。またルフェーヴルの空間論は本来マルクスの「資本論」、そしてフーコーの言説や場 milieu への考察にも基づき、都市における近代性と空間の関係を捉えなおしたものでもある[ルフェーヴル 2000]。
そのため本節、および次節ではやや迂遠な流れになるものの、この人文地理学・都市地理学が提示した「空間論的転回」の議論にふれながら、近代性(科学・合理性・まなざし)による言説の権力(本節)、資本による都市空間と国家の権力(次節)とそれらに言及する人類学の先行研究の整理を行っていく。またその整理作業の中で、部分的に現在のカンパラにおける都市の民族誌的描写も行えればと思う。
——カンパラの民族誌的デッサン①「七つの丘の街」という表象
七つの丘でもっとも最初に近代的な権力が集中したのは、かの英国のアフリカ植民地行政の基礎を築いたルガード提督が、ウガンダに滞留の際に、砦を築いたといわれるオールド・カンパラ Old Kampalaであろう。まだブガンダ協定が結ばれず、ガンダ王国との関係も不安定な時期である一八九〇年、大英帝国の尖兵であるルガード提督がナイル川から進軍し、ガンダ王カバカが座するメンゴに対面するその丘に、自らの軍事用砦を築いた。以後、なし崩し的にオールド・カンパラは外国人のための一種の租界として発展していくため、旧植民地行政を司っている丘と言える。ナカセロの丘を中心とすると西側に位置し、今の都市名である「カンパラ」は結果的にこの丘の名前からとられた。この発展は独立前後まで続く。現代では一九九〇年代からリビアのカダフィ大佐による資金で、巨大なモスクが建設され、カンパラの丘々の夜景の中でも不思議な威容を誇っている場所である。
次に述べるナカセロNakaseroは、植民地時代後のウガンダの政治的独立、また商業などウガンダの「近代」を代表する場所となっている。オールド・カンパラが王都チブガの中で特殊な地域として発展していく中、ウガンダの国の行政機関や経済の中心として、オールド・カンパラの東側の向かいに位置するナカセロが同時に発展していくことになる。これは一九六三年の独立以後、ウガンダ国行政の中心として国会議事堂、大統領官邸などが据え置かれた。また、多くの大使館や高級ホテルが丘全体に散らばっており、現在「カンパラ」といえば、ナカセロを指すものとなっている。近代国家や経済を司る場所といえる。
ナカセロがウガンダの近代を代象する場だといえば、伝統を代象するのはブガンダ王国の現在の王宮が置かれているメンゴMengoであろう。ルガードがカンパラへと進軍する以前、ガンダ王国はこの地域を王都(チブガ)と定め、一八八五年には当時のカバカであるムワンガがメンゴの丘に王宮(ルビリ)を設置した。この丘にあるガンダ王国の中枢に喰いこむため、ナミレンベの英国国教会、ルバガのカトリック教会などが宣教を拡げていった歴史がある。ウガンダの近代史上、ウガンダ国政府とガンダ王国との政治的な争いのほとんどが常にこのメンゴ王宮前か、メンゴとナカセロを結ぶ場所で繰り広げられていったと言ってよい。古くは一九六六年に当時のオボテ政権がアミン将軍を派遣して、メンゴの王宮を軍で包囲したこと、また最近では二〇〇八年にムセヴェニがカバカの外出を妨げたために、王国政府を支援する人々がメンゴに集まったことなどがある。カンパラ市内ではやや西に位置し、丘には宮殿を囲むように環状の道路が走っており、丘の西には「カバカの湖」という人工の貯水池が置かれている。
メンゴは伝統を代象すると先に述べたが、このメンゴの丘に隣合い、ウガンダの国教ともいうべき、ウガンダ教会(聖公会)の本山があるのがナミレンベNamirembeである。一八七七年に布教のためウガンダに来たCMS(英国教会伝道協会)は一八九〇年にウガンダで初めての教会の建築を行う。ウガンダにおける近代医療の幕開けとして、アルバート・クック医師はこのナミレンベにて一八九七年にメンゴ病院を設立し、キリスト教(プロテスタント)の宣教と近代医療の普及に努めた。その後一九六〇年代までウガンダ教会(英国国教会)の本部として知られ、現在ではウガンダでも有数の建築物である聖ポール大聖堂が丘の頂上に聳えている。メンゴ、オールド・カンパラの間にあり、都の中心のやや北西側に位置する。ちなみにナミレンベはガンダ語で「平和」を意味する。
そのウガンダ教会のナミレンベの奥に、もう一つウガンダにおけるキリスト教を代表する場所がある。カトリックのカンパラ大司教の鎮座するルバガRubagaの丘がそれだ。一八七九年にイギリスのCMSに対抗するかたちで、ローマ教会から送られた白い神父団 (White Fathers) により、カトリックの宣教を目的に切り拓かれた丘である。一九二五年に大聖堂が完成してより、現在までカトリック教会のウガンダ本部が置かれている。以前はナミレンベと同様に、メンゴの丘の一部として認識されていた。オールド・カンパラの西に位置している。
二つのキリスト教会の丘の脇にあるのは、近代の知を司る大学があるマケレレ Makerere の丘である。一九二二年にウガンダ保護領を含むケニア、タンザニアの東アフリカ英国植民地全体の教育を一手に担う場所として、マケレレにマケレレ大学(Makerere University)が設立された。それに先立って隣接するムラゴ Mulagoの丘には一九一三年に熱帯医学(性感染症と眠り病の研究を目的としていた)の研究所が建てられる。これは後にマケレレ大学医学部、およびムラゴ病院(Mulago Hospital)へと成長する [Iliffe, 1998]。このことからマケレレはウガンダの学術と最高教育機関を司る場所と言えよう。ナカセロからは北西、オールド・カンパラからはちょうど北側に位置している。
マケレレが大学などの近代的な知を代象してきたのに対し、その東に位置するコロロ Kololoは独立以後の外交や政治的な舞台を用意してきた。他の丘と異なり、コロロはガンダの人々や外国からの宣教団によって拓かれた場所ではなく、アチョリの首長の一人が、一九一二年に英国によって故郷から追放され、その後その地で孤独に死んだこと(kololoはアチョリ語で「独り」を意味する)を起源とする場所であるという 。主にその発展は一九六三年の独立以後で、その良質な都市インフラから、カンパラに在住する外交官や援助関係者の多くはこの丘に居住していた(現在、外交官など含めた富裕層は再開発地域のナグルやブゴロビに移ってはいるが)。また丘の中腹にあるコロロ飛行場は、政治演説や選挙の集会など、政治的なパフォーマンスの場所として知られている。
七つのそれぞれの丘の成り立ちは、それぞれが代表するもの(植民地権力、近代国家、王権、宗教、学術、外交など)の歴史でもある。そしてその丘の間や、外側の郊外にもまたとりこぼされた別の歴史が存在する。ただカンパラでは、これら七つの丘のそれぞれの権力が、歴史というかたちで物語性を持ち、互いが競い合い、人々が普段に動いている情景に宿っている。カンパラという都市にはウガンダの歴史と社会とが七つの丘というかたちで不思議なバランスで凝縮しているのである。)
ルフェーヴルの『空間の生産』の言葉で表すと、こうしたカンパラの丘の代象は空間の三重の概念を示していると言える。一つは空間的実践、「生産と再生産を、そしてそれぞれの社会構成体を特徴づける特定の場所と空間配置をふく」むもの[2000:75]であり、第二にあるのは空間の表象、「生産関係に、生産諸関係が課する『秩序』に・・・(中略)・・・結び付けられている」もの[同上]である。そして第三の表象の空間、「複合的な象徴体系において具体的に表現される」空間でもある[同上]。
都市自体が、究極の人工物であることを考えたときに、都市は偶発的に抱え込んだ歴史的事件(植民地支配やクーデター、民族的な対立など)に沿って、その秩序を(後付けのようにも見えながらも)構成し、都市の景観を形作っていく。ルフェーヴルの議論の秀逸な点は、政治や経済などの社会的な事象が、空間という実在の事象を「表象」を伴って形成していくある意味象徴の論理と、マルクス主義に則った唯物論的な過程を指し示したことにある。
上記で示したようカンパラの「七つの丘」の表象は、ツアリスト・ガイドブックの中で用意された言葉でありながらも[15]、その実、多くのカンパラ住民がその丘の名前をそらんじて言えるように[16]、その表象は、カンパラの空間的秩序として受け入れられている。そしてその丘が配置され、それぞれの役割を社会空間の中で果たすことによって(空間的実践)、カンパラはウガンダの首都としての地位を保持し、その歴史性を、都市の景観(空間の表象)の中に刻み込んでいる。総じて、都市という「表象の空間」は、国家の歴史性や主権の正統性を、ただ在ることによって示している。そして、都市の中で生きると言うことは、その表象の空間、権力性の中で、自分たちの置かれた位置を再帰的(reflective)に振り返りつつ、しかるべく役割を行為/実践(プラクシス)していることでもある[ブルデュー 1988;セルトー 1987]。
こうした再帰性とまなざしは、フーコーが指摘したように、きわめて近代的なものでもあり、また都市的なものでもある。フーコーは初期の著作の『臨床医学の誕生』において、後のパノプティコンや生権力の議論の核となる「まなざし」についてまとめ、医学的な身体内部の分類の秩序が、公衆衛生と都市空間の中にも広がっていく論理を説明した[フーコー 1969]。われわれの身体における病という不調、病因と病理が解明されていくにあたり、疫学的の病理も整理され、空間も(集団における病を防ぐために)再編成されていく。その意味で、都市空間の秩序は、「医学的なまなざし」と、人々を守り、生かすための権力によって形成され、維持され、更新され続けているものである。つまるところ、都市は近代国家の権力が空間的に凝縮した場/環境 milieu として存在する[フーコー 2004;佐藤]。
こうした都市空間の権力の布置のあり方を、18世紀のフランス、特にパリの空間を事例として人類学的に分析したのがポール・ラビノウの『フランス的近代』[Rabinow 1989]である。ラビノウは、ドレイファスとの共著[ドレイファスとラビノウ 1996]などからもわかるように[17]、80年代の北米においてフーコーの仕事を英語圏に紹介するという役割を担っていた研究者でもある。ラビノウ自身の科学史や医療史における貢献[ラビノウ 1998]でも指摘できるが、『フランス的近代』は特に、フーコー初期の思想の影響を色濃く受けた作品であり、都市空間の考察として嚆矢を飾るものであろう。
さてラビノウの関心の始まりは自らのフィールドワークの調査地であるモロッコにおいて、「フランス的近代」を経験したことにある[ラビノー 1980]。モロッコはフランスの植民地支配を経て、その都市部(ラバト、カサブランカ、それらの郊外)など、歴史的な近代は都市空間に代表され、その文化・社会に消えない刻印を投影させた。その意味で著書『フランス的近代』は、北米人ラビノウによる世界の都市空間におけるフランス的近代の(フーコー的な意味での)考古学/系譜学を実現化したものだ。フランス的近代、つまりその都市空間の編成が、どのような歴史的経緯で実現されるに至ったか。それを彼はフランス革命を牽引した思想家ルソー、フランス革命後からナポレオン帝政にいたる社会思想の変遷、また19世紀のコレラ対策などの公衆衛生政策などを紐解き、都市空間が単なる歴史的な偶発性の集積ではなく、ある種の意図(政治性)が、思想家、政策立案者、建築家、社会学者などの同時代者の思惑、思想などにより、結果として「社会技術的な環境 socio-technical environment」へと編成されていくことを論じた[18]。
だが、本来であれば、ラビノウのこのような試みは、社会史の一部と位置づけられ、フィールド調査などを主とする古典的な人類学研究と一線を画するものかもしれない。そのために、この研究を「人類学」と位置づけることはどれだけ意味があるのか。
筆者は、このラビノウの研究を以下の三つの点で、都市人類学の一つの試みとして捉える必要があると考える。一つは、本著作が「近代」という「ライティング・カルチャー」後に焦点化された社会要素を、相対的に扱っている点である。北米出身の人類学者として(果敢にも)ラビノウは「フランス的近代」を一つの異文化として捉えようとする。彼ら北米の人類学者らが経験しているアメリカ的近代との対比。そのようにして、ラビノウは近代の多様性を指摘すると共に、世界的なルーツの一つとして捉えようとする。その意味でラビノウは「都市」という近代的な経験の多様性と普遍性を、人類学的な検証の過程を以て表現しようとしているのである。それは、現代の均質化されつつある都市インフラに囲まれた都市人類学者にとって、必要な思考のプロセスでもあろう。
次にあるのは、フーコーの研究を用いながら指摘する、その都市空間と同時代的に編成され、布置される「人間」の概念に関する指摘であろう。都市空間が政策立案者や建築家たちの思想によって編み出されたものであるとするならば、彼らの思想が培われた同時代の「人間」に関する思想もまた、その創りあげられた都市空間と密接に関係してくる。ラビノウが行おうとしたのは、この都市空間が、「人間」が生き、活動する場所として用意されたとすると、どのような「人間」の概念がそこに埋め込まれていたかと言うことである。それをラビノウは「場」milieu と「情感」 pathos という言葉で、その特徴を提示しようとする。
最後に指摘するのは、初めに挙げた「近代」とも二番目の「人間」の概念と重なるが、都市空間における「権力」がどのように生み出されていくかについてのことである。彼の最初の異文化としての都市空間の経験がモロッコにおけるものだということは先に述べたが、そこには植民地の支配の爪痕が残り、そしてそれは当時の「ライティング・カルチャー」における問題提起の一つとして、記憶に残った[19]。だが、ラビノウは『フランス的近代』において、その都市空間が異社会に埋め込まれた経緯を、一方的な支配の過程と置かず、フランスの支配者/エリート層が、モロッコにおける人々の主体形成を試みた場として捉え、都市がその壮大な実験場として創られたことを指摘する。そして、その権力性がフーコー的な意味で、蜘蛛の網の目上に組み込まれるように、場や情感を形成する一つの要因として働いていくこともまた指摘する[1989: 288]。
この節の最後に、このようなフーコーやラビノウが指摘する都市の考古学的な要素である衛生と隔離 segregation、そしてそこから付随的に生み出される都市の階層性について、カンパラを例として紐解き、一つの民族誌的デッサンとして示してみよう。
先にカンパラの七つの丘とそれらが代象する政治的な空間について述べたが、それぞれの丘には階層性もまた存在する。そして、その階層性は植民地時代に行われた都市計画に基づいたものでもある。
1907年から1915年の間に、ウガンダにおいて植民地行政はすでに「人種/民族」に基づいた都市における隔離政策を行っていた。その隔離政策は、当時の英国植民地領内の都市部において常識的なもので、ヨーロッパ植民者(行政)・インド系移民(商業)・アフリカ原地住民(労働力)との三層に分かつものであり、それは人種・民族それぞれの恣意的に割り当てられた業務機能以外にも、衛生が念頭に置かれたものでもあった。
当時の熱帯医学の常識では、マラリアや黄熱病、コレラなどはアフリカの湿地などの瘴気からに来るものが大きいとされていた[Curtin 1989]。またすでに当時に明らかにされていたマラリアの媒介であるマラリア蚊を避けるためにも、アフリカの多くの植民都市は高所に好んで建てられ、その冷涼な気候によって、自らの健康を保持することを心がけていた。また人種間による熱帯病の感染自体も怖れられ、人種・民族による棲み分け/隔離は、衛生の面によって推奨され、政策としても実施されたのである。またそれらの衛生感覚や隔離政策は、特に南アフリカのアパルトヘイト政策において顕著に結実することになる。
ロンドン大学熱帯医学研究所の出身で、熱帯医学専門家であり、都市計画の立案者であったW. J. シンプソン博士(W. J. Simpson)がカンパラに着任したのは1915年のことである。カンパラの都市計画はその後、シンプソン博士の「衛生感覚」に基づき、施工された。それは、公衆衛生的な側面から、行政、商業、工場などそれぞれが切り離され、またそれぞれの業務を担う「人種・民族」の隔離もなされなければならないという信念に基づいたものであった[Curtin 1992]。
カンパラにおいて具体的に行われたことの一つは、カンパラの丘と丘の間にある湿地を埋め立て、すべて清潔な空間にすることである。そうすることで、マラリア蚊の繁殖は避けられ、沼からの瘴気も一掃された。結果として、多くの植民者たちがすむ丘陵地(ナカセロ、コロロ)の間に横たわる場所は、芝生に覆われ、ホテルの敷地、また公園やゴルフ場として利用された。また、こうした芝地の分断により、カンパラの都市に二つの中心ができあがったと、1960年代当時にカンパラの都市計画に携わったマクマスターは指摘する[McMaster 1968]。一つはボマ boma とされる行政の中心であり、そこにはヨーロッパ人たちの植民者たちが集まる場所となった。これは各丘陵の頂上付近に設置され、その丘の上から植民者たちはカンパラを一望する光景を独占していくこととなる。都市を一望する場所を占めることは、自然に政治的な高位を意味していくことになる。
そしてこの芝地によって分け隔てられた丘の中腹にインド系移民がまかなう商業地域が設置される。そこには銀行や両替商、また海外から輸入された商品などが並ぶ高級商店など、交易としての都市を司る場所でもある。この人種・民族的な区分けと階層性はカンパラの中でもナカセロの丘で強く見られるものだろう。ナカセロ丘陵の頂点には大統領官邸が占め、その周囲を行政のための省庁、シェラトンやインペリアル、スピークなどの高級ホテルが取り巻く。シェラトンの敷地は広い芝生とヨーロッパ風の庭園とに覆われ、その下側にウガンダを代表する主要な銀行の本店(スタンダード・チャータード、バークレイズなど)が置かれている。丘の中腹を走るカンパラ通り Kampala Rd. より下は、高級住宅マンションや海外輸入品などによる商品を扱う商店街が並び、中上流階級の人々の行き来でにぎわう。
だが、上記の二つの中心に加えて、ここでは原題のカンパラにおいて三つ目の「都市の中心」が存在することを指摘しておく。それはナカセロの丘の底辺にあるオウィノ市場 Kitale Owino である。丘の南側の中腹から下り、オールド・タクシー・パークなどの交通の中心からさらに南下した窪地に、オウィノ市場はある。扱っている商品はウガンダの現地で生産された農産物、ツタで作ったいす床几や、木製の工芸品、また海外製品を扱うにしても、古着などの中古品がほとんどである。この場所はウガンダのインフォーマル・セクターの中心を占め、多くの地方からきた小売商がナカセロ中腹にあるナカセロ市場 Nakasero Market でなく、オウィノにて仕入れを行い、そしてタクシー・パークを経由して、全国に散らばっていく。
ナカセロほどにその行政的・経済的重層性が如実に表れている丘は他にはないが、丘の頂点から湿地(芝地として一部は埋め立てられているものの)へと下るに従い、植民地時代に設置された人種・民族間の隔離の重層性が存在するのは、カンパラの七つの丘、およびその周辺の丘陵地においてすべてに共通する。それは統治者、(商業的)市民、そしてアフリカの民族的な臣民によって構成され、カンパラの政治的な多層性もまた示しているのである。
だが、ラビノウの『フランス的近代』に代表されるこの理念的なアプローチは、後の都市人類学研究の軌跡から振り返っても、課題の多いものでもある。例えば、それはルフェーヴル、またはフーコーにも指摘しうることだが、統治者の視線にのっとって、その統治技法を吟味するにあたり、その統治からこぼれ落ちるもの(ルフェーヴルにとってはスラム、初期のフーコーにおいては患者や病者などの経験)は考察の対象にならず、「統治される人々の政治」[20]はいっこうに明らかにならない[21]。ラビノウはこのモロッコの人々の側の視線や思惑は明らかにしないが、それは彼が主張するように著作の焦点が「フランス実践哲学的人類学の民族誌」としてあり[Rabinow 1989:20]、モロッコの都市民そのものになかったということであろう。だが、そうした欠落は、後のライティング・カルチャー以後の人類学や歴史学、政治学の中で一つの課題として現れてくることになる。
あと、もう一つ課題として考えねばならないのは、ラビノウの非常に一貫とした思想史をたどる系譜学的な手法についてである。都市という一つのマテリアリティを考える際に、それは具体的な資本の蓄積、資本家たちの成長、労働者の移動など、経済的な側面を捉える必要がある。だが、ラビノウがとった手法は、都市があくまでどのような理念の上で創られたかという思弁性の中での検証であり、実際の具象性やそれに伴う偶発性が欠けている。それは設計図としての建築と、実際に建てられた(もしくは建てられなかった)建造物を比較検証することに似ている。ラビノウの『フランス的近代』においては、すでにあるパリという都市の現在から、系譜的に思想を辿るという方法が取られていた。だが、そこには決定的に、思想の外から訪れる偶発的な事件や、建築家の思惑から外れた住民たちの都市空間への意味付与などが欠けることとなる。(この段落の加筆は後の課題。)
さて、これら二つの課題のうち、「統治されるものの政治」は次章以降に語るとして、次の節では都市(および国家)における資本や経済性の問題を考えていきたいと思う。どのようにして具体的な経済性や資本、またそれに伴う国家の権力、そして交通の流れなどが都市にまた別の姿を与えていったのかについて、理論的側面としてはデイヴィッド・ハーヴェイのマルクス主義的地理学の分析に触れ、民族誌的記述としてペネロープ・ハーヴェイの道路や都市的なインフラの人類学的研究を意識しながら、また別のカンパラのデッサンを試みたい。
3.「都市の政治学」解題③:都市の地理、制度、マテリアリティ
先のカンパラの二つの民族誌的デッサンにおいては、行政区分、地政学的な特徴などには無頓着に、空間的な特徴としてのカンパラの「丘」の描写を行ったが、この節ではやや具体的な経済的な事象や政治機構などに言及しながら、地域的な特徴を重点に述べていきたい。なぜならば都市空間はルフェーヴルの「空間の表象」と「表象の空間」を含む以前に、「空間の実践」としての経済活動が存在する。ルフェーヴルの知的遺産をイギリスの文脈で継いだハーヴェイがより意識的なのは、「空間の実践」の具体性である。どのような経済性が、近代の都市空間(アーバニズム)を生み、ひとつの社会的な構成要因として働いているのか。また特に90年代以降の状況を鑑みるにあたって、国家のとる経済政策がいかに都市の「権力」とあいまって、都市に住まう人々の生活に影響を与え、そしてその生活がどのようにまた都市空間を彩っていくのか。
ハーヴェイの後期の業績が主に新自由主義の暴力的な傾向や、それに対抗する都市での民衆のデモや運動、暴動など、マルクス主義がもつ資本や都市性の原初的な関心に引き寄せられ、それらのテーマに基づいた著作を発表していったのは、新自由主義の時代的な隆盛だけでなく、関心の具体性がそこにあったことも大きい[ハーヴェイ 2007, 2013]。そして、その新自由主義的経済や資本、都市空間、そこから連携されて動く国家権力についての考察は、オングのグローバル化されたアジア諸国の経済性と人々のラチチュード(自由性)への考察へと導かれていく。だがその経緯を明確にするために、資本と都市空間、そして国家の結びつきについて理論的に追い、その後にカンパラを例にとっての別のデッサンを試みてみよう。
社会科学という分野が生まれ出る19世紀半ば、マルクスとエンゲルスが率先して考察の対象にしていたように、産業革命後においては「資本」と「生産」とが、当時の社会の在り方を特徴的にかたちづくり、かつ「都市」の姿を決定づけていった。都市化による貧困の問題と同様に、その資本主義という経済的な動向を観察することが、都市空間自体を考察する手段であったのである[マルクス 1969/1970;エンゲルス 1990]。
また資本主義と、それによって生み出されていった中流階級(ブルジョア)を分析することは、産業化の面でも、税収の面でも、資本家たちを保護する国家の権力を分析することでもあった[マルクス・エンゲルス 1978]。マルクス主義的な考えに従えば、都市空間は農村にある労働や資源をそこに集中させることで、産業のための資本を形成し、かつそれに支えられた国家権力を代象する[浅野 2000;佐藤 2014]。デイヴィッド・ハーヴェイ(後に論じるペネロープ・ハーヴェイとの混同を避けるため、以下D.ハーヴェイとする)は、マルクスに則しながら、都市空間におけるそのような経済的・政治的権力の形成過程を、「資本のアーバナイゼーション(都市空間形成)と呼ぶ[ハーヴェイ 2013:28-31,2012]。D.ハーヴェイが試みたのは、そのような資本のアーバナイゼーションが、具体的にどのような都市空間を形成するに至ったのかである。ジェームソンが指摘したように[Jameson 1991]、後期資本主義における美術や広告が、消費文化と結びつき「ポストモダン」と呼べるような都市空間を形成していくことを、D.ハーヴェイは初期の代表作の『ポストモダニティの条件』[ハーヴェイ 1990]で論じる。だが、彼の研究は中期から後期にかけて、資本主義や新自由主義の動きをマルクス主義的な分析の下に進めてられていくことになる[ハーヴェイ 2012,2013,2017]。そこでD.ハーヴェイの研究の焦点となるのは、ポストモダニティというよりも「モダニティ(近代性)」である[22]。D.ハーヴェイは都市社会学者のロバート・パークの言葉「人は都市をつくるとき・・・(中略)・・・自分自身をつくり直してきた」[ハーヴェイ 2013:26]という言葉を引きながら[23]、次のように語っている。
歴史を通じて、強力な社会的諸力によって前方へと駆り立てられてきた都市形成過程(アーバンプロセス)によって、われわれがどのようにつくられ、つくり直されてきたのかである。過去一〇〇年間にわたる都市化の驚くべき速度と規模が意味するのは、たとえば、われわれが理由や方法を知らぬまま何度もつくり直されてきたということである。この劇的な都市化は、人間の福利に寄与してきたのだろうか? それによってわれわれは、よりよい人になったのだろうか、それとも、アノミー[没価値状態]と疎外と怒りとフラストレーションの世界をさまよっているだけなのだろうか? われわれは、都市の海の中で翻弄されるだけの単なる単子になったのだろうか?[ハーヴェイ 2013:27]
D.ハーヴェイはこのようなモナド化された都市の個人と、都市化による福利の剥奪に疑問を投げかけながら、都市的環境(milieu)に生きる人々の「都市への権利」[ルフェーヴル 2011]を訴えかけるわけだが、その問題意識上に身を置きながら、D.ハーヴェイは過度に、文脈化され、グローバルの中で脱個性化されたポストモダニティの空間よりも、歴史性や政治性を伴う、都市の記憶を探るべく、都市のモダニティ研究へと足を踏み込んでいく。つまり、D.ハーヴェイが90年代以降にその方向性を変えたのは、都市の具体的な社会事象やマテリアリティの部分であり、都市空間の過度な思弁的な議論から、また実証性が高く、経済的具体性も高い、歴史的な事象としての都市空間を議論の場に移していったわけである。その代表例が、18世紀からオスマンの大改造を経て作り上げられたパリの都市景観や都市民衆の社会史研究である[ハーヴェイ 2017]。
——カンパラの民族誌的デッサン③:カンパラの地理学と地政学[24]
カンパラ市概況:カンパラ市(Kampala City)はウガンダ共和国の首都である。人口約168万人(2019年9月の概算[25]による)を抱え、ウガンダの最大の都市として政治・商業の中心を実質的に担っている。全面積は197平方キロメートルになる。行政的には北のカウェンペ、東のナカワ、西のルバガ、南のマッキンディエ、中央と5つの区(Division)に分かれ、総じて一つの県(ディストリクト District)としての体裁をなしている。それぞれの区に現ウガンダ政府の特徴を成す、ローカル・カウンシル・システム(以下LCシステム)[26]における、LC III(エル・シー・スリー)の議長となる区長が置かれ、また選挙区としての整理されており、カンパラ市は特別行政地区のカンパラ市としてLC V(エル・シー・ファイヴ)の議長であるカンパラ市長(Kampala Lord Mayor)を擁している。
中央区 Central Division:行政・商業の中心であるナカセロを含む区域。ナカセロには大統領官邸、国会議事堂が置かれているだけでなく、各国大使館や国連事務所が並び、シェラトン、スピーク、セレナなどの高級ホテルも重要な一画を占めている。またナカセロの丘の背後には、ゴルフコースを挟み、コロロの丘(外交官らや政府高官のための高級住宅地やレストランがある)が控えている。その一方でナカセロの丘の中腹から谷底にかけては地方から集められた農産物の市場、乗合タクシーの集合駅、中古衣料や地方からの多様な物産品、海外からの輸入品を置いているオウィノ市場など、地元住民の交通・行商の中心があり、極端な二面性を備えた地区である。
カウェンペ区 Kawempe Division:カンパラ市の北側を占めている。ナカセロに隣接する丘にはマケレレ(大学)やムラゴ(病院)など、ウガンダの学術主要機関があるが、それ以北はブワイセ、カウェンペ、カムウォチャと水はけの悪い広大なスラム地域が広がっており、カンパラ市内でも最も「都市の中の村落」に近い地区である。ガンダ農村部および西部からの移民が比較的多く、家具職人など手工業労働者も多い。またガヤザ通りにあるカレールウェには中央北部の穀倉地帯から運ばれる大きな市場が置かれており、カンパラ北部の胃袋を賄っている。
ナカワ区 Nakawa Division:カンパラ市東部から北側を占めている地区。ジンジャ道路というケニアからの間道が通じていることから、歴史的にはケニアからの移民が多く、またモンバサから運ばれる輸入品もナカワ区で集積されることが多い。ジンジャ通り沿いにはチャンボゴ(国立)大学やJICAが設立したナカワ職業訓練校など教育施設が見られ、日本から輸入された中古車の売買も盛んである。またケニアのルオ系移民の後を引き継いでか、同じナイロート系の北部アチョリ民族の移民も多くみられた。特に1990年代以降は北部内戦の影響を受けて、チナワタカ、キティンタレ、ナグルなどにアチョリ集落が形成された。だがナグルをはじめ、2000年代以降は開発が進み、ンティンダ、ブゴロビ、キサーシなど新興住宅地が目立つようになってから、アチョリ集落などスラムの撤廃が進められている。
ルバガ区 Rubaga Division:カンパラ市西部。中心部に近いメンゴ、オールド・カンパラ、ルバガ、ナミレンベは植民地時代の文化・宗教遺産を最もよく引き継いだ地区であるが、その反面ソマリア、スーダン、コンゴ民主共和国、ブルンジ、ウガンダ北東部カラモジョンなどからの多様な移民を抱え込んだチゼェニ地区に隣接しており、治安状態は概ね良くない。またエンテベ道路近くのカトゥエには、自動車・バイクの修理工場、及び自動車中古部品市場が広がり、カンパラの中でもインフォーマル経済の中心地となっている。マサカ及びムバララへと向かうマサカ通り沿いの市場の町ナテーテには、西部からの作物であるマトケなどが多く並び、西部の農作物の売買を仲介する場所の一つでもある。
先のデッサン(民族誌的デッサン②)でも述べたが、カンパラの街の形成を考える上で重要なのは、植民地時代の保健衛生的な配慮から、マラリア蚊の少ない高地がカンパラの中でも行政官や伝道師たち植民者の間でも好まれたために、行政、金融、病院、ホテルなどの機能は丘の頂上付近に固まり、低地には不法居住区や市場などのインフォーマル経済が盛んになるなど、地理的な棲み分けが見られる。ナカセロの北に広がるゴルフコースなども、従来は低地にある湿地帯を整地し、コロロなどの住宅地を確保するために造られた経緯があることも同様だ。だが近年(特に2000年代後半以降)では土地不足から、湿地帯の再開発が進み、従来はゴルフ場や芝地として整地されていた場所が一斉に高級住宅街やショッピングモールとして再開発される状況も出てきている。それに伴い、マケレレの谷下にあるカタンガ、ブカサの周辺地であるナムウォンゴ・ソウェト、ナグル・アチョリ集落などスラム地域に対する立ち退きが促進され、貧困層の人々の住宅問題が新たに起こり、カンパラの土地問題の一端ともなっているのが現状であろう。
カンパラの人口は現時点でも増え続けており、ガヤザ道路、グル道路、ジンジャ道路、マサカ道路、ホイマ道路、エンテベ道路などの各主要道路沿いに多くの郊外を生み出し、カンパラ市街の領域は拡大し続けている。2010年に完成したカンパラの北環状道路 (Northern Bypass) によって、その傾向は促進されるものであろうと思われる。
さて、このような(やや古典的な)地理学的な描写に対して、都市における資本とモダニティ/近代性を踏まえ、詳細に書き加えなければならない要素が二つあるだろう。それは「交通」と「通信」のありようである。現代地理学において、車による交通などのモータリゼーションと携帯電話などのコミュニケーション機器の発達は、都市における物理的な距離を縮め、都市の様相を変えた。だが、その反面、それらの人々の意識する地理的な距離はあくまで道路の整備、交通網の整備などのインフラ、また都市の人々が持つ個人の情報機器(携帯電話・スマートホンなどの端末)などの物理的な条件に依存するものである。
カンパラの交通事情の詳細の説明を行うのは、これらの交通が都市にとっては動脈ともいえるかたちで働いていることにもよるからである。特に自動車を中心にしたモータリゼーションは内戦の状況が落ち着いた1990年代以降、急速に進み、2000年代においてはタクシーを含め、民間の車の所有率が高くなったことから、カンパラは慢性的な交通渋滞に悩まされることになった。
だが、このモータリゼーションがウガンダとカンパラにもたらしたものは、安価で大量の日本車と、それに伴う交通渋滞だけではない。車の移動は、都市に時間と空間の縮小と拡大を同時にもたらした[27]。一点から一点への移動にかかる時間/空間を短縮させ、かつ移動するものにとっては徒歩で移動するよりも遙かに遠くの場所に到達させる[28]。モータリゼーションともう一つあわせると、伝達の手段としての携帯電話は、現代の都市の地理学的な分析に大きな影響を与えた。また、これは1990年代以降のカンパラの都市部にとっても、革命的な出来事であったろう。
このような交通と通信は、D.ハーヴェイがその後期の著作群において議論するように[ハーヴェイ 2012,2013]、都市における「市民」との関係を決定的につなぎあわせるものでもある。そして、これから論じていくP.ハーヴェイの「インフラストラクチャーの人類学」においても主張なテーマとなっている。
現代の文脈においてルフェーヴルの訴えた1968年と比べても、都市/近代の権力関係は複雑化し、「自分自身をつくり直」す環境を再帰的に捉え、見直すことは容易ではない。 その原因の一つにあるのは、D.ハーヴェイ自身が述べているように、90年代の情報化の促進と冷戦時代の終焉による、激しいグローバライゼーションが挙げられる。特にD.ハーヴェイが例に挙げる、ニューヨーク、ロンドン、また中国の海岸部の新興工業都市群など、世界資本の坩堝と化し、それに呼び寄せられた国内外の移民によって形成される都市空間は、それぞれの国家の経済政策の主導によって形成されものだが、グローバル化され、複数の基点を持つ多国間の資本やそれに伴う欲望が、自らを構成する人々を自律的に管理し、統制していく場所でもある。
もう一人のハーヴェイである、イギリスの人類学者ペネロープ・ハーヴェイ(以下、P.ハーヴェイ)が問題提起を行うのは、このような都市の近代の資本やマテリアリティ、そして商品性(commodity)が、どのように都市に住む人々の環境に(そしてひいては認識に)影響を与えているかについてである。P.ハーヴェイは、商品の流通やそれを支えるセメントや道路などのインフラストラクチャーが、スペインやペルー、また他の社会でどのようにそれぞれに根付いているかを説明しながら、都市(インフラストラクチャー)という存在がモダニティや国家これまで社会‐文化人類学で扱ってきた文化や社会に似た、人間を規定する文脈的な存在、新しい人類学の主要な研究対象として立ち上がってきていることを指摘する[29][Harvey 1996; Harvey 2010;Dalakoglou and Harvey 2014;Harvey and Knox 2015;Harvey, Jensen and Morita 2016]。例えば、P.ハーヴェイはダラコグロウとの共編著の中、社会における道路の役割について以下のように述べる。
道路というものは現地の特定的な環境の中で物質的に実在化されるが、これらの民族誌の中で取り上げられる主要な関心と触れられるのは、(自動車での)移動という語法と物質性にまつわる期待と不確実性への感覚である。それらは近代化や近接性、成長、除外、循環などとも関連する。現代の感受性における移動の重要性を考えれば、人文学や社会科学をまたがり自動車による移動の研究が急速に進められているのをみるのは不思議なことではない。[Dalakoglou and Harvey 2012: 460][30]彼女の指摘する「道路」という物質性は、現代社会に埋め込まれた近代性という一つの、(ハイブリッド化された)文化でもある。道路は人々の未来への感受性を掻き立て、商品を運び込む欲望の媒介ともなる。そのようにして、P.ハーヴェイらは「道路」というモダニティへの期待と不確実性を、ペルーの田舎町など辺境から描くが、カンパラにおいても、道路にまつわるオートモビリティー(移動の自在性)は都市に住む人々の感受性には不可欠なものだ。また、このカンパラの首都という属性から国内の道路が集中する状況を考えると、P.ハーヴェイの指摘する近代と、それにまつわる国民国家の権力的な視線[Harvey 1996]は、このカンパラの集約し、ウガンダの政治空間の中で、大きな舞台として成立することになる。
——カンパラの民族誌的デッサン④ 交通と通信の連結地としてのカンパラ
交通:地方を結ぶ幹線道路を通して、どのようにカンパラが交通と情報の連結点としての機能を果たしてきているのかをここで少し説明しよう。ちなみに、カンパラの幹線道路と事物、情報の移動のあり方、そして道路沿いの集落の歴史はそれぞれに密接に重なり合っている。
旧宗主国のイギリスはナイルの源流を押さえる意味で、ヴィクトリア湖の北側に位置するブガンダ王国と手を結び、その武力をサポートしながらも、ブガンダ王国の宿敵であるブニョロ王国の平定を行った。そして20世紀初頭から1962年の間、ブガンダ王国の首都キブガを、ウガンダの首都カンパラとして築き上げていった。
ヴィクトリア湖沿いに重要な都市は三つ連なっており、一つがカンパラ、また一つがブソガ地域に属すがナイルの源流付近にあるジンジャ Jinja(後にはここにインド商人が多く住み着き、ダムが建設され、商業の一つの中心ともなる)、そして植民地行政の中心となったエンテベ Entebbe であり、後にエンテベには空港が据え置かれることになる。ジンジャはヴィクトリア湖沿いにカンパラの東にあたり、ケニアやウガンダ東部とカンパラを結ぶ連結点としてあり、エンテベはヴィクトリア湖沿いに西にあたり、国家行政の旧中心地、リゾート地、国際的な連結点でもある。
湖畔の三つの都市に加えて、カンパラから北側の内陸へ32キロ入った場所に軍の居留地としてボンボ Bombo が置かれた。それはウガンダの北の要衝地でもあり、アチョリ地域の首府ともいえるグル Gulu の間を防ぐ緩衝地としても機能している。
それぞれの近郊の土地を結ぶ道はそれぞれの近郊の町の名前が名付けられている。カンパラのナカセロの丘の南側を走る、目抜き通りのカンパラ・ロードは、東に向かうとジンジャを結ぶジンジャ・ロードに繋がる。西への道をとるとマケレレの丘を左手に北上する谷道へと繋がり、それはボンボ通りとなって、ボンボを通って、やがてグル通りへと繋がっていくことになる。エンテベ通りは、カンパラ通りの中心点であるT字路(イギリス資本のバークレイズ銀行 Barclays Bankのカンパラ本店の建物の角にあたる)を、ナカセロの丘を降りるかたちで曲がり、ムラゴの丘下の道を辿り、西に向かうのがエンテベ・ロードである。
他に、カンパラ郊外の町ブセガを起点にカンパラから西、マサカ‐ムバララ‐キガリ(ルワンダ)へと繋がるマサカ・ロードが、そして北西部のミティアナ‐ムベンデ‐フォート・ポータルを結ぶムベンデ・ロードがあり、また北側の郊外のナンサナからホイマを結ぶホイマ・ロードが地方を結ぶ幹道として広がっている。地方から人を運ぶのはこうした幹道からやってくる長距離バス(ウガンダ英語ではコーチ coach)であり、それらはすべて、ナカセロの丘の南側中腹から谷底にかけてのコーチ・ステーションに集まり、乗客を拾ってはまた地方へと走っていく[31]*。コーチはそれぞれのルートに特定の会社による経営がなされている。マサカ・ロード沿いであればナイル・コーチ、西ナイル方面であればガアガ・コーチ。それぞれの運営会社は独特のペインティングによるデザイン以外に携帯会社などの広告などを車体に載せていることが多い。
二つ目の方法は、発着場の前に待機しているバイクタクシーであるボダボダを捕まえ、そこからバイクの二人乗りのかたちで、目的地に向かうことだ。この方法として便利なのは、指示する限り目的地まで運んでもらうことができるので、まず歩く必要がなく、またカンパラ市内の交通渋滞にかかわらず、車間を通り抜けて、迅速に移動できることである。だが、口述するタクシーと比べても、相応に高価で、かつその安易な移動手段から交通事故時の危険の高さもあり、中所得者以上でなければ用いない交通手段でもある。またボダボダの運転手たちは、典型的なオポチュニストたちであり、事前に目的地までの金額を交渉し定めておかないと、数倍の料金をふっかけてくるやっかいな人々でもある。便利であるが、その他にさまざまなリスクを負う必要がある交通手段である。このボダボダという交通手段とそれを担うボダ・ドライバーたちについては、ある意味カンパラを舞台とする人々の中でも主要な役を占めているが、後の章でその役割について述べる。
最後に述べるのが、ごく一般的で、ある意味確実な交通手段であるタクシー(乗り合いバス)である。ケニア、タンザニアでマタツ matatu、もしくはダラダラ daladalaと呼ばれる乗り合いバスが、カンパラ市民たちにとってもっとも頻繁に用いられる交通の足である[33]。 地方から、もしくはカンパラの近郊から中心部に降り立った場合、大抵はコーチの発着場に隣接する、オールド・タクシー・パーク Old Taxi Park (Paaka Kadde)、もしくはニュー・タクシー・パーク New Taxi Park (Paaka Empya) [34]へと向かうこととなる。そこではカンパラ近郊のそれぞれの目的地行き別にそれぞれの発車場が定められ、数百のタクシーが連なったパーク内の車の合間をすり抜けるように歩いて、自らの目的地の発着場に辿り着く。そして、列の先頭にあるタクシーの車内(大抵は目的地を書いた木製の看板を目印代わりに車の天井に置いている)に乗り込み、14人の定員になるまで待つ[35]。満員となると、次に待つタクシーの車上に木製の看板を移し、出発をする。待つ時間は目的地別によるが、大抵は30分以内に出発をする。タクシーの運転手はその間、休憩を行い、コンダクタと呼ばれる車掌役のものと、彼が雇ったものたちが客引きをする。
そうした、ハイエースのタクシー[36]に乗り込み、目的地に向かう。筆者がよく用いたのは、調査地のナムウォンゴ行きのタクシーと、そして2007年に半年以上寄宿していたムイェンガの丘である。当時からオールド・タクシー・パークは舗装されておらず、雨が降った後のぬかるみに足を取られながら、発着場に向かって何度も歩いたことを覚えている。そしてタクシーに乗り込むと、水やソーダを売り歩く少年たちや、菓子をかごに載せた女性たちが車の窓際に寄ってきては、こちらの注意を引いては、かれらの商品を見せてわずかな売り上げをあげようとしていた。これらのタクシー・パークは近郊と中心部を結ぶ場所でもあり、そして地元のものたちにとって商売の始まる場所でもあった[37]。
通信:さて、交通など地理や事物の流通だけでなく、情報と通信(それと伴う海外の資本)が集約する都市としてのカンパラの側面も述べていこう。90年代後半から2000年代にかけて、都市での情報面の一大革命として起こったことは携帯の普及であったろう。筆者は1997年の末11月から12月にかけて2ヶ月ほどウガンダにあるNGOの調査のために滞在したことがあるのだが、この時期にようやく携帯電話が市場に流通し始めていたが、まだ高所得者層の奢侈としてしか見なされていない時期であった。固定電話やファックスなどはあったが、内戦状態を挟んで、個々の電話線は寸断され、かろうじて繋がっている電話線も、電話会社の内部の汚職などで、電話線保持者に不当に高い料金が請求されるなど[38]、通信手段としても妥当な方法として考えられていなかった。これは当時、未だに電話線によってネットに繋げていたメールについても同様である。また使用できるパソコンなども、ごくごく限られた場所にしか置かれていなかった。
当時の通信手段としてもっとも用いられていたのは、私書箱(P.O.Box)を用いた郵便と、そしてその私書箱を置いている郵便局前の待ち合わせである。私書箱は月々の料金制で、ある程度の金額を郵便局に支払えば、自分専用の私書箱が設置され、中所得者層はその私書箱をチェックしに、日に一度は郵便局を訪れていた。1997年当時、誰かに用があり、会いたい場合の方法は、その人物が私書箱を持っている郵便局の前で彼、もしくは彼女を日長一日待ち続けることであった。そして、自然に郵便局の前は、人々の待ち合わせ場所となっていた。
当時のカンパラのもっとも人が集まる場所はしたがって、ナカセロの丘カンパラ・ロード沿いのウガンダ中央郵便局(General Post Office, GPO)であった。中央郵便局は先述したエンテベ・ロードへのT字路から西側に1ブロック下った場所にあり、ウガンダ銀行とも隣り合わせ、その脇の坂道(スピーク・ロード Speke Road)を上ったところには、独立の記念像を囲むようにインペリアル・ホテル、スピーク・ホテル、そしてシェラトン・ホテルとカンパラのもっとも豪奢なホテルが建ち並ぶ場所でもあった。そしてそれらのホテルからキマティ・アヴェニュー Kimathi Avenue 沿いに西に下っていくと、ウガンダ共和国の省庁の建物群を横目に国会議事堂が据え置かれているパーラメント・アヴェニュー Parliament Avenue に行き着くのだった。ウガンダ政府のテレビ報道を担当するUBC (Uganda Broadcasting Corporation)はナカセロの丘を背にする議事堂の裏手に位置していた。
GPOを中心にカンパラ・ロード沿いには、外資のバークレイズ銀行、ウガンダ銀行、またほかのインド系資本のスタンビック銀行やナイル銀行などの金融機関が並んでいた。そしてGPOからホテルへと上っていくスピーク・ロードの坂沿いに、その日の新聞が売られ、この政治と商業のナカセロの丘の中腹を中心にいくつものラジオ局が置かれて、日々のニュースを更新していた時代だった。まだ車量も少ないために交通渋滞も深刻ではない時代であったために、当時でもっとも華やかな商業アーケードが、GPOから50メートルほど離れたコンスティテューション・スクエア下に開かれ、パイオニア・モール Pioneer Mall と名付けられた。
だが、乗用車と携帯の普及とともに、都市の機能は拡散することになる。ほぼ十年後になる2006年末に再びカンパラを訪れた筆者が発見したのは、人混みの空いたGPO前と寂れたパイオニア・モールであった。人と出会い、お互いの名前を尋ねた後、以前はどの郵便局を用いているかということを訊いたのが、2006年には携帯番号を尋ねあっていた。実際のところ、携帯の番号がカンパラに住む人々の実質的な住所となっているかのようだった。
携帯電話は、人間の繋がりを刷新させるツールであった。手紙や人づての通信が、すべて直接の通話とテクスト・メッセージに取って代わった。どんなに貧しい者も自分の携帯を持ち、なにかしらのかたちで携帯によって連絡が取れるようになっていた[39]。番号を知ってさえいれば、誰とでもどこでもすぐに繋がった。日々の挨拶はすべて携帯でなされ、一日に一度は相手の消息を尋ね、様子を知り合うのがカンパラの都市に住む人々(スラムの住民であれ、中興所得者層であれ)のルーティンとなっていた。そのためのエアタイム代などが、男女間や親しい間の友人たちとのねだりの対象となり、携帯を通じてのカネのやりとりがすでに始まっていた。これは2010年代の半ばからのモバイル・マネーの導入によって、さらに促進されることになる。だが、この時期で重要なのは、都市において資本が充足されるとともに、確実な情報手段が確保されることで、都市の空間が心理的にも物理的にも拡大していったことである。
2007年に新しくできた商業アーケードは、ナカセロの丘の裏手、そしてコロロとの間の谷地のゴルフ場の隣接地にできあがったガーデン・シティである。この2年後にはケニア資本のナクマット Nakumatt がガーデン・シティの隣に開店し、カンパラ(ウガンダ)で初の24時間営業を行いはじめた。
ガーデン・シティに代表されるようにカンパラの再開発の一環としてそれまで谷地/湿地帯として持て余されていた土地は、集中的に埋め立てられ、高級住宅地や商業アーケードとして活用された。ジンジャ・ロードとカンパラの北側のカムォチャを結ぶルゴゴ・バイパスが開かれ、南ア資本のスーパーマーケット会社である「ゲーム」が、ルゴゴ・ショッピングモールの軸として開店したのも2000年代後半である。
また大資本によるショッピング・アーケードやスーパーマーケットだけでなく、地元で育った中型のスーパーも、カムォチャの北のブコト、ンティンダなどの新興住宅地、ガバ・ロード沿いのカバラガラ、ブンガなどの遊興地にも開かれ始めていた。都市の機能は都心から徐々に郊外へと資本の流動とともに拡散し始めたのである。
上記のデッサンは、交通と通信を焦点に描いたものだが、都市の地政学を軍事的な視点で書いたものともいえる。都市を眼差しと事物の移動速度が結合する機械と見なし、そして街路を戦場の延長のように例える軍事的な比喩は、後にカンパラの暴動の事例で示すように、都市の統治のあり方を示す先験的な視線をわれわれに伝えてくれる。車や鉄道[40]などの移動方法が容易になることによって、都市は国の地方の情報や人を集約させ、そして同時に放出する大きな連結場所となる。この場合、都市の公共空間は岩谷[2017b]が論じるように、グローバリゼーションを含めた資本の集約場となり、オジェの提示する「非ー場所」のように扱われる[オジェ 2017]。だが、先に述べたように、都市(特に首都の機能を持つ場所)は、統治権力が集約され、そして対抗する力がそれと衝突する政治的空間であることも忘れてはならない[ルフェーヴル 2011;ハーヴェイ 2013;藤田 1993]。そして第3章でみるように、その人や事物、情報の移動は何かしら政治的に意味付けされ、都市空間を占める共有された建物、通り、市場などは集合的な記憶もまた集約し[アルヴァックス 1989]、「非ー場所」をまた歴史性やアイデンティティをもたらす場所に揺り戻す。
例えば、ジンジャ・ロード沿いにあるナカワ Nakawa は、現在、JICAの職業訓練センターが置かれ、自動車修理工の訓練場所としても知られる。また古くから中古車市場が並び、車の売買や保険関係の店が並ぶ場所でもある。ナカワがこのような中古車関係の土地になったのは、ジンジャ・ロードがモンバサを結ぶ主幹道路としてあり、モンバサの港から積み出された売り物としての自動車が、カンパラ都心に持ち込まれる前にナカワに大量に駐車されていたことが理由にある。関税局もこのナカワ近くにあり、ケニアからの長距離バスはジンジャ・ロード沿いの関税局に届けを出してからカンパラに入ることを許された。
自動車市場との直接的な関連については不明だが、ケニアからのジャルオの人々がナカワ付近に住み着き、1960年代に一つの集落を築いていたのも、ケニアとカンパラを結ぶジンジャ・ロード沿いゆえのことである[Parkin 1969]。このケニア・ジャルオの集落を基に、北部から同じくアチョリのグループが(特に1986年の聖霊運動と連動してのLRAによる内戦以降に)、ジンジャ・ロード沿いからナグル Naguru の丘の谷下であるナグル・ゴーダウン Naguru Godown や、ナカワの裏手の丘ムブヤ Mbuya の谷下にあるチナワタカ Kinawataka に住み着き、2007年までアチョリ集落(不法居住地帯)として知られていた[41]。
歴史的には後述のナムウォンゴのように、ジャルオやほかの移民の人々が基礎を築いた場所であっても、政治の変化や再開発、もしくは避難してきた場所の治安復帰が成し遂げられ、再び人々が移動し、土地の名前かかすかな教会や学校などの建物の形跡でしかその名残を汲み取れない場所も多い。だが、その土地の地理的な環境や、モノの移動の痕跡は何かしらの歴史性をその土地に植え付ける。その歴史性を手がかりに、都市は事件を呼び寄せ、時の政治に働きかける。
本章では、まず都市空間における先行研究の取り組みについて、要所にカンパラの3つのスケッチを挟みながら、大きく二つの視点からその整理を行った。一つはルフェーヴルが指摘する、表象される空間としての近代都市の理念性についてであり、もう一つは物質性についてである。理念性については、フーコーの思想を忠実に受け継いだラビノウの研究を引きながら、近代の理念性がいかに都市に反映されること、特にカンパラにおいては当時の衛生医学や植民地主義的な思想によって都市空間が布置され、植民地都市の構造を丘に広がる三層(統治者・市民・臣民)を形成する状況を現在まで引き継いでいるかについても述べた。そして、物質性については、D.ハーヴェイの資本主義空間としての都市という議論を踏まえながら、P.ハーヴェイの「インフラストラクチャーの人類学」を紹介し、道路という欲望を媒介する近代的装置が、どのようにカンパラの中で張りめぐらされ、そして、コーチ、ボダボダ、タクシーなどの交通機関がカンパラ市内隅々まで駆け巡っているのかについて述べた。またこの20年の技術的な進歩によって、カンパラでは有線の電話交信や手紙などの通信手段に代わり、携帯電話の発達が人々の間の物理的な制限を超えて、ネットワーク化を飛躍的に高めていくことについても指摘した。
この20年のカンパラにおける交通と通信の発展は、都市の機能を拡散させる状況を形成している。そして、都市の機能の拡散は、都市における資本の拡散でもある。さて次の章では、都市における資本のあり方(そして移民労働と国家の関係)、消費文化の拡がり、また商品を眺める街を歩く人々の視線と街の風景の移り変わり、そしてそこから排除されるスラムの状況などを、7つのデッサンのうち残りの4つを用いながら考察していこう。
註
[1] 同じ系列にいる日本の都市人類学者として平野(野本) [2005]や奥田[2017]などが挙げられる。
[2] 普段の路頭での私への呼びかけは、「中国人 Muchaina」である。
[3] Boda もしくはボダボダ bodaboda。カンパラのメインの交通手段ともいえるバイクタクシー。もとはウガンダーケニアの国境間を移動する手段として用いられ、その国境 Borderから名称を与えられたとされる。この職業従事者の特徴については後述する。
[4] このようにフィールドワークと新聞やメディアにおける政治的な分析を交えながら、現地の政治情勢や、市井の政治意識を探る試みとして、主な研究としては日下[2013]がある。アフリカの都市人類学においては、ケニアの新聞での論争と都市での埋葬問題を扱った松田[1996]や、ベナンのラジオ番組における聴衆による公的な政治言説の生成[Tanaka 2012]や、マラウィのラジオがもたらす政治文化についての分析[Englund 2011]などが挙げられるが、日下のように、都市部で具体的な政治言説がどのようにメディアと一般大衆の間で相互的な関係を繰り広げているかについては、まだ研究が少ない。
[5] たとえ、表に出してこうした議論をしなくとも、スラムにいる市井の人々は常に誰が施政者か、またどのような政策をとりつつあるのか、ラジオや人々の噂で常に把握し、その変化に対応するよう備えている。
[6] ウガンダ国内の内戦については、第二章にて後述する。
[7] すでにライティング・カルチャー批判[Clifford and Marcus 1986;Marcus and Fischer 1986](この語については後の注で詳述)で指摘されたが、われわれが個々の事物や人間に焦点をあてて語り始めるとき、古典的な民族誌(例えばEPの『ヌアー族』やマリノフスキーの『西太平洋の遠洋航海者』)が行うように、個々の固有性を捨象し、典型的な「ヌアー人」や「トロブリアンド島民」を民族誌上で創出していく傾向がある。
[8] このような「貧困」の本質化はアフリカなど第三世界への援助の必要の訴えとあいまって、NGOや国際機関での広告、また報道などのメディアにおいて、われわれに身近なイメージとしてある。
[9] 京都大学の生態人類学のグループを中心にしたアフリカ潜在力グループにおける研究群などを参照のこと。
[10] ライティング・カルチャー・ショック(またはライティング・カルチャー批判とも呼ばれる)とは80年代後半から90年代にかけて人類学内で提起された、認識論や方法論における疑義と、それにまつわる反省的な議論をめぐっての動きを指すものであり、日本の人類学の中での呼称である(英米の人類学会で “Writing Culture Shock”という表現は用いられていない)。1986年にアメリカのサンノゼ研究所で企画されたグループらによって、主に二つの著作が出版された。ジェームス・クリフォードとマーカスの編集による『文化を書く Writing Culture』[クリフォード 1996]と、フィッシャーとマーカスによる『文化批評としての人類学 Anthropology as Cultural Critique』[フィッシャーとマーカス 1989]である。それらの著作が引き金となり、サイードらのけん引するポストコロニアリズム批判などとも相まって、90年代の(日本の)人類学はこの自己批判的な議論に消耗していった経緯がある。ただし筆者はその呼称も含めて、人類学の認識論や方法論への批判が日本において表層的なものにとどまったにすぎず、その後の人類学の方法論的な発展を妨げたと考える。そして、そのことが現在の日本の人類学の課題となったと考えている。そのため本論は人類学の方法論への批判も、「ライティング・カルチャー」から受け継ぎ、都市人類学の文脈で再考を試みるものである。
[11] ストラザーンの『部分的つながり』を訳した大杉らは、原義のニュアンスを残すために、パースペクティヴ、スケール、ポジションらの訳語を用いている。筆者も極力その方針に従うことにしたいが、本論では文脈に沿いながらパースペクティヴ/視野、スケール/規模、ポジション/位置・立ち位置などの用語で説明していきたい。一橋大学社会人類学教室の翻訳の伝統として、設立者の長島信弘に始まり、用語を無理に日本語の訳語に落とさず、カタカナ読みとしてその用語を用いることがあるが、時に専門性を過度に高め、人類学や民族誌の読み手を失ってしまうような翻訳にもなりがちである。本論では、そのために読みやすさを踏まえて、使い分けることとしたい。
[12] 都市の民族誌的な描写ということも、本論では一つのテーマとしてある。イギリスの人類学者のインゴルドはその論考「人類学は民族誌ではない」[Ingold 2008]において、人類学が過度にも見えるやり方で普遍性を付与する方法論を取る中、民族誌が文化や社会の個別性を強調し、人類学の持つ比較の視座を拒否することを指摘する。だが、筆者がここで「民族誌的な描写」として意識するのは、参与観察を通して得られた、視覚やその他の感覚の共有を、描くことによって成立される試みであり、そこには深い感覚的な意味での自文化との比較や、普遍的な理解に繋がるものと考える。
[13] 同姓ではあるが、二人に血縁関係はない。
[14] 19世紀末の植民地行政官たちの報告では四つから十三と一定でなく、また近年の開発でもカンパラにある丘の名前は増え続ける一方でもある。例えば二〇〇六年にウガンダの観光局が出したパンフレット [Kibirige 2006] にはその数は二十一と記されている。
[15] それはアーリの言うような「観光のまなざし」である[アーリ 2014]
[16] 「七つの丘」という呼称自体(これはもちろんローマの故事にちなんだものである)が、カンパラを示すものとして多くに知られていること、そして1997年のウガンダ滞在時(11月から12月)、と筆者の2006年のマケレレ大学の大学寮滞在時でも、知り合ったものに時にふれて「七つの丘」の説明を求めたとき、多くが上記の丘の名前を挙げたという筆者の経験から。ただ、時にオールド・カンパラやコロロの代わりに、イスラムのモスクのあるキブリ Kibuli、国立病院のあるムラゴ Mulago、ガンダ王カバカの墓のある世界文化遺産のカスビKasubiの丘などと入れ替わることがあった。ただ、それでも、ほとんどが政治・王国・宗教・学術を代表するものとして、先述のナカセロ、メンゴ、ナミレンベ、ルバガ、マケレレを挙げていた。
[17] 原著 (Dreyfus, H. and P. Rabinow, Michel Foucault: Beyond Structuralism and Hemeneutics. University of Chicago Press.)の出版は1982年である。
[18] これとは違う思想的な側面で、フランスの社会政策における社会的連帯や「貧困」概念の誕生を考察したものに田中[2006]がある。田中の著作は現在のフランスの福祉における思想的起源を探ったものだが、ラビノウの視野はやや広く、「空間」の編成のあり方そのものを探ったものである。
[19] その初期の著書『異文化の経験』において、ラビノウは自分の初めてのモロッコでの調査時に滞在した町セフルーについて、以下のように語っている。
フランスによるセフルー周辺の農地の植民地化――これは一九二〇年代末に始まり、一九五〇年代まで確実に増加した――に加えて、この街にフランスの政府施設や商業施設、さらには教育施設が設置されたことは、セフルーの発展と進むべき方向に実質的な影響を与えた。リヨテの植民地政策に従って、それ以前の昔からあり、周りを壁に囲まれたセフルーの旧市街のすぐそばに、新興区域である〈新市街地〉が築かれた。[ラビノー 1980:13-14]ちなみに「セフルー周辺の農地」はフランス式の広大な農業地として整備されていたことにも触れている。[ibid:11-12]
[20]「統治されるものの政治」はパルタ・チャタジーの『統治される人々のデモクラシー』(原題はThe Politics of the Governed)[チャタジー 2016]が当然念頭に置かれている。
[21] ルフェーヴルはこの傾向については、彼自身の著作の冒頭で潔く認め、次のように述べている。「本書には、郊外・スラム街・隔離集団・虚偽の『集合住宅』といったものの生産について、直裁に、辛辣に、さらには攻撃文書のようにして記述するという視点が欠落している」[2000:15]。だが、ここには別の罠が潜んでいて、このルフェーヴルの欠落した視点を埋めようとしたところで、「統治されるもの」の視線は、その空間の構造性の上に乗るがために、反映されにくい。後のルフェーヴルに続く都市空間論を民族誌的に(郊外やスラム街などを直裁に、辛辣に)記述しようとしたものはそうした陥穽にはまりがちである[i.e. デイヴィス 2010;宮内 2016]。そこにあるのは、権力の生成と排除空間の再生産という構造を延々と指摘する自家撞着的なものであろう。ただ、犯罪者たちの記録などはあるものの[i.e. フーコー 1995]フーコーはその傾向を補うようにして、その後半生では「自己」の経験を語ることへ向かっていったのは、権力の内的な観察を行うために必要な経緯であったのだろう[i.e.フーコー 2004]。
[22] ポストモダニティとモダニティの区別について、ジェームソンは特にアートを例に出しながら、テキスト性(ブルデューやギデンズ風にいうと「再帰性」)の意識化の有無を指摘している[Jameson 1991: 55]。テキスト性や再帰性が、ある状況に置かれた知性のメタ化を意識的に行っている場合、自らの方向の一極性を疑わずに「進化/進歩」への指向を持っているものが「モダニティ(近代性)」であるが、その方向がすでに多様な主体によって、複数のベクトルを持ち、それを相対的に指摘して、多様な近代を抱え込むような時代性と文化が「ポストモダニティ」と呼ばれるものとしてある。
[23] この言葉で人類学者にとって思い起こされるのは、かの著名なギアーツの「文化」の定義であろう。「人は自ら紡ぎ出した意味の織物の上に支えられた動物であると信じる私は、文化とはそのような織物であると考え、したがってその分析は法則性を求める実験科学ではなく、意味を求める解釈科学であると考える」[ギアーツ 2002: 234]。この文脈でいうと、都市人類学は、近代的な都市空間を「文化」の「意味の織物」が繰り広げられる場 milieu として捉えられよう。そして、その織物を織り、織物である自らを形成している人の営みと同時に、その織物の意味を読み解く「解釈科学」でもある。
[24] 以下で示す記述は『世界地名大辞典――中近東・アフリカ篇』(加藤博・島田周平編,朝倉書店,2012年)において筆者が「カンパラ」の項目について記したことを、本稿のために最近のデータをアップデートしたうえで書き加え、編集したものである。
[25] UBOS (Uganda Bureau Of Statistics), Estimated Land Area and Projected Population by Sex by Lower Local Government, “https://www.ubos.org/wp-content/uploads/ publications/09_2019Final_2020_21_LLG_IPFs_Sept_2019.pdf,” 2020年4月27日閲覧。
[26] この地方行政の要となるLCシステムについては、第Ⅱ部において行政区分のディストリクト、ディヴィジョンなどとともに、その歴史的経緯も含めて詳述する。
[27] 例えば、1960年代の西アフリカ、モシでの農村において、車などがもたらす移動と時間の衝撃的な体験性については、川田[1973]が魔術的な瞬間移動として述べている。ウガンダ、カンパラは半世紀前の西アフリカ農村部の時間感覚と比べて、植民地制度の集約度も高く、モータリゼーションに一世紀もの間さらされ続けていたといえるが、それでも徒歩の移動が日常的であった農村部から移民としてやってきた人々の経験は、川田が述べる一つの「瞬間移動」的な経験に近いものといえる。それがより日常化されたとしても、カンパラの都市の人々にとっては、移動により断片化された空間の経験は、一つの違和感として残り続ける。このことについては第三部のスラムの状況に絡めて後にふれるつもりである。
[28] フランスの建築家/哲学者であるポール・ヴィリリオはその著書『速度と政治』において、(これもまたパリを例示として出しながら)次のように述べている。「都市の地図に詳細な検討が加えられることがあっても、都市はこれまで、なににもまして高速交通路(河川、道路、沿岸航路、鉄道など)に貫かれた人間の居住地として受け取られたことはなかった。街路とは密集地帯を横切る道路にほかならないことまで忘れられていたようだ。…(中略)…都市とは一時停止の場、弾道のシナプス的軌道の上にある一点にすぎず、古い砦の斜堤、尾根の道、境界線、あるいは岸辺のようなものであり、そこでは眼差しと事物の移動速度が機械のように結合している」[ヴィリリオ2001: 13]。ヴィリリオはそうした都市の交通革命の概念を提示して、軍事の比喩を用いつつ都市が交通を巡る速度の政治に覆われていることを議論している。
[29] 日本においてこの「インフラストラクチャーの人類学」のフォロワーとしては、難波[2018]や森田ら[i.e. Morita & Jensen 2017]がいる。また都市という公共空間を人類学/社会学的に語るという試みは東京の事例では吉見[1986]や、最近の日本の人類学の試みの中で都市のマテリアリティに焦点を当てたものでいうと木村[2010]、岩谷[2017a]、近森[2017]などがあげられる。
[30] 訳出は筆者による。原文は以下のとおりである。 “Roads are materially embedded in local particularities, but the thematic concerns that these ethnographies raise also speak to a more general sense of promise and uncertainty associated with the idiom and materiality of (auto)mobility – and its association with issues of modernisation, connectivity, growth, displacement, circulation, etc. Given the centrality of mobility to the modern sensibility, it is not surprising to find that there is an established and growing literature on automobility across the humanities and social sciences” (Dalakoglou and Harvey 2012: 460).
[31] これらのコーチ・ステーションは2007年から2011年は数カ所あり、北部のマシンディ、グル、そして西ナイルに向かう長距離バスはアルア・パークなど、行き先によって、ステーションの場所が異なり、それこそ日本やパリ、ロンドンなどの近郊と地方を結ぶ鉄道駅の役割を果たしている。ちなみにメインのステーションは二つあり、これは後の節で述べる都市近郊の交通網をカバーするタクシー(乗り合いバス)とも関連するが、ナカセロの丘下、オウィノ・マーケットの北側に隣接するオールド・タクシー・パーク脇のもの(東に向かうジンジャ・ロード経由のものや北部のホイマなどに向かうもの)が一つ、そして西側にあるニュー・タクシー・パーク脇のもの(西のマサカ・ロード、ムベンデ・ロード向かうコーチが中心)である。他にはカンパラ・ロード沿いのコンスティチューション広場 Constitution Square 下にあるカンパラ・ロードの乗り場が東部の街への発着場としてある。
[32] 主に2007から2011年の観察による。だが、2017年に筆者がムバレ-カンパラ間で用いた際も同様の状況が見られた
[33] タクシー本体はトヨタのハイエースがほとんどを占めており、日本から輸入されてきたハイエースは、こちらに運ばれてきたのと同時に、改造を施される。内装として、後部座席はすべて取り除かれ、バスに取り付けられている三人用の簡易座席が三組取り付けられ、運転座席から後ろに9人分の席が用意される。運転手、その隣の座席二つが乗客のために空けられており、そして、たいていは運転座席のすぐ後ろ側にコンダクタが3人の乗客とはまた別に押し入るように乗ることで後部座席人10人、計13人が乗り合いバスの中に入ることになる。車内でラジオなど流すことが多いが、ケニア、ナイロビのマタツのようにDVDなど備え付けの音楽機器を用意することは稀である(大型のコーチなどには乗客の退屈しのぎのために用意されていることもある)。外装は白地に、ウガンダ国内規定の青のラインをペインティングされる。
[34] オールド・タクシー・パーク、ニュー・タクシー・パークは、ナカセロ、メンゴ、ナミレンベ、オールド・カンパラと四つの丘の谷に位置する場所に置かれ、先に述べたカンパラ・ロード、エンテベ・ロードなどにも近接し、かつナミレンベ・ロードを下ることでマサカ・ロード、ホイマ・ロードに繋がるブセガにも出やすい、交通の要衝としてある。
[35] 後述するように、実質12人乗りで、コンダクタを含めて13人であるが、14人の定員制限がなされている理由についてはわからない。小学生などの子供は定員数にカウントされず、たいていは大人の膝の上に座らせられることが多い。また規制の厳しいカンパラでは比較的この定員は守られているが、警察の監視の利かない地方では定員を大きく超える人数を載せる現状も存在する。
[36] ちなみにタクシーには青の塗装以外に、「ヤマダ塗装」、もしくは「田中工具店」など以前に日本でこのハイエースが用いられていた社名が残り、その出自が日本の人間の目には明らかにされている。ただ、この「日本から来た車」にまつわる犯罪話は多い。日本の(違法での)滞在経験があり、日本―カンパラ間で中古車ディーラーを行っていたことのあるボブ(仮名)によれば、日本ではウガンダ人の不法滞在者による窃盗団が組織され、ハイエースを主に狙っての窃盗を繰り返しているという。それらが特定の転売組織とつるみ、盗んだと同時に分解され、海外に「部品」として輸出される。その際にエンジン・ナンバーは削られ、車の身元は消されてしまう。ハイエースの車の「部品」は直接にウガンダに持ち込まれるわけではなく、「南アジア」を経由してUAEのドゥバイに辿り着き、そこで初めて組み立てられ、ウガンダ輸出用に仕立てられる(輸入時の車検制度がかなり形骸化しているとされるウガンダでの輸入は、規制に厳しいケニアより容易とされているという)。組み立てられた際にいくつかの部品はすり替えられ、かなり粗悪な中古車としてウガンダに持ちこまれる。そのために、外装は(日本語の会社の表示も含め)ハイエースに変わりなくとも、中身は別物の車ともいえる。インタビューによる聞き取り:2007年2月、ナカセロ・マジェスティックビル内にて。
[37] これらのタクシー・パークに近接するオウィノ・マーケットや、ナカセロ・マーケット、またキセカ・マーケットについては後の説で詳述する。
[38] 1997年当時、固定電話を保持していたものによると、電話会社の職員が会社内部で、私有の電話線をジャックし、自らのために海外電話をかけて、請求だけを顧客に回すということが多くあり、そのためにUAMHは多額の電話使用代の請求のために、一時的に電話を止められていた。内戦時から常套化されていることであり、ただ海外からの支援を受ける便宜上、電話線を持たざるを得ないことも同時に嘆いていた。1997年12月、UAMH (Uganda Association for Mentally Handicapped)のカグワ牧師 Reverent Kaggwaによるインタビューから。
[39] 2000年代半ばから、携帯の端末機器もウガンダにおいて非常に安価に入手しやすい状況となっていた。フィンランド資本のノキア、韓国資本のサムソン、また中国資本の多くのメーカーがアフリカの市場に流れ込み、またそれらの製品が中古品として出回ることで、貧困層にも手が届きやすいものとして、ウガンダに流通していた。アフリカにおける携帯電話と社会の問題については羽渕ら[2012]を参照のこと。
[40] 鉄道については、後の章のスラムに絡んで議論をするつもりであるが、現在のカンパラでは自動車と比べて、モノの輸送の面でも人の交通の面でも、ほとんど機能していない。旧宗主国であるイギリスは、モンバサ‐ナイロビ‐カンパラを結ぶ鉄道を建設し、その折に鉄道敷設の工事のために大量のインド系労働者が鉄道沿いに住み着くこととなった。だが、前述の1973年のアミン政権によるインド人追放などの政策により、鉄道を含む経済基盤は荒れていくこととなり、鉄道運営のための維持活動は徐々にされなくなった。2000年前後にケニアのナイロビとカンパラとを結ぶリフト・ヴァレー鉄道計画が、ウガンダとケニアの両国の合資で立てられたが、2005年前後に破産し、その後、鉄道会社に向けての試みがいくたびかなされたが、まだ再開の目処は立っていない。
[41] だが、2007年から徐々に進み始めた都市の再開発の中で、こうしたアチョリ集落もスラム・クリアランスなどを経て、なくなりつつあることも事実ではある。