週末、死者たち |
先の週末はなにかいろいろとあった。そのせいか、くたびれて今週はぜんぜん仕事にならない。
まず仕事先の同僚の招待で、葬儀にでる。といっても、数年から十数年前に亡くなった方々のための集まりで、特に最近急に亡くなった方と言うわけでもない。同僚はカトリックなので、教会関係者と親戚とを招いて、追悼式典(ミサ)を行うという。彼曰く「伝統的なものでもなく、教会からしたら必要なものでもないけれども、これが一番都合がいい。」
ミサはカンパラから数十キロ離れた農家で行われた。親戚一同が集まり、おたがいの近況をやり取りする。それだけでなく、村長を初めとする村の人間、そして地方政府関係者で準郡長(LCIII議長)などが参列する。
ミサの後には家の女性たちが用意した食事が一同に振舞われる。エンテベに向かう途中、車道からかなり辺鄙なところに入った場所で、こんなところでなにかあるのかしらと思うような、そんな田舎。終始穏やかで平和なかたちでミサは執り行われ、親戚も近隣の村の人々も、そして同僚家族の友人方々も満足して帰っていいった。
だが、その家の敷地にある墓を見てみると、4人から5人の墓石にその没年が刻まれ、みな、40~50代で亡くなっている。しかも90年代から2000年代にかけである。そのことから見ても、死因はおそらく内戦ではなく、エイズなのではないかと思われるが、その「恥ずべき」病については皆、口をつぐんで語らない。
また、次の日に久しぶりにスラムに顔を出してみると、これもまた葬式だという。ただしこれは昨日に亡くなったものの埋葬で、しかも死因は毒殺だという。友人のカンバスに連れられて、葬儀の場所を訪れてみると、近隣の人間は珍しく声を荒げて、激しい言い争いをしている。感情を示すこと自体が礼儀を欠くとされている、この社会で、こうもお互い怒鳴りつけあっているのは、珍しい。
結局、折角埋葬したものを掘り起こし、別の場所に埋めるという。問題は近隣関係で集めた金をもとに葬儀を行ったが、それが適切ではなかったと異論が出て、村ぐるみでの喧嘩となった。
毒殺となった経緯も含めて、どうもよく分からない。その地区はいつも出入りしている場所と比べて西の端に位置し、フンビラという西の民族が多数を占めているという。貧しい家も多く、ちょっと特殊。カンバスに訊いてみても、毒殺などこちらに来てから、この数十年はじめて聞く事件だと言う。もちろん、彼の言だけではそれが事実かどうかは分からない。ただ、えらく珍しく皆の気が立っていた。それもいつもあるように立ち退きに迫られたがゆえに、外側の人間に向かう敵意でなく、もっと内側の不信感に駆られたもののようでもある。
いまのままでは気が立っていて、どうも聞き取りもままならない。調査助手のアーサーを後でやって、細かい事実の確認をさせたほうがいいだろう、そう思って後にした。
死者の代弁は生者が行うしかないのだが、そこには生者の思惑が絡まる。先の死者の記念ミサが平和に行われたのは数年もの後になって、それなりに気持ちが整理されたからなのだろうけれども、それでも式典中に涙を流すものもいた。スラムで亡くなった男は、スラムには家族がいず、村に置いてきたという。そしてこつこつと働いてお金を貯めていたにもかかわらず、その金の行方を誰も知らないという。
酒を一緒に飲んだ人間も、中毒で病院に送られたという説明も聞く。また、彼に酒を酌んだ人間たちは失踪して見当たらない。語られることの内実も含めて、何が起こったのか誰もわからない。
そんなふうに取り残された人々の感情にあてられたのか、昨日から調子がどうも良くない。本来、葬儀は人類学者にとって格好の活躍の場なのだが、私には時に重過ぎる。もちろん、嬉々として写真を撮っていたり、いろんな人から反応を探ってみたりする自分もいるのではあるが。
一枚目の写真はワキソ県のカシンジャ村でのミサの風景から。神父が抱えている聖水が、ミネラル・ウォーターの容器に入っているのは???なのだけれども、これはこれで機能を果たすのだからいいのだろう。2009年5月9日に撮影。二枚目はスラムの入り口から。いつのまにか「ムクワノ」というインド系企業がスラムのど真ん中に工場を作り、その入り口のために道を整備していたりもする。画面の右端に見えるのがそれ。その一方で、工場の脇を人々はその日常を何事もないかのように送っている。三枚目はカンバスの家の前で。写真にあるのは、カンバスの「実妹」のマシカ。もうすぐ3歳になる。カンバスの60過ぎにもなる父親がここカンパラで若い女性に産ませた子どもである。元々の妻はコンゴ側の村にまだ存命中だというが、まだ私は会ったことがない。カンバスは40後半にもなる男やもめだが、その一家を取り巻く環境はすこし複雑だ。二枚目、三枚目とも5月10日に撮影。