子どもと侮蔑 |
「子どもは天使である」だなぞ、誰がそんな都合のよいことを言ったのか私にはわからないのだが、正直なところ、スラムの調査では(別にスラムだけに限らないのかもしれないが)、そんな言葉を吐いた人間の正気を疑うような気持ちに駆られることがある。
なぜなら子どもは侮蔑の天才だからである。本能的にこちらが嫌がることを汲み取って、わざわざその言葉や行為を強調して、一番嫌なかたちでこちらに見せつける。
最近ことさらに姿を見かける外国人である私に、子どもたちは「外人だ!外人だ!(Muzungu! Muzungu!)とはやし立てる。私も慣れたもので、「ムズング(外人)じゃねえぞ!」とガンダ語で怒鳴り返す。
さて、そうすると、相手は目を白黒させて、まるで「馬がしゃべった」かのように驚き、それからは少し注意して話しかけるようになる。・・・というふうに思っていると大間違い。
反対に今度はことさらに、「ムズングじゃない!チャイナー!」とはやし立て始める。この場合、チャイナはもちろん中国人のこと。そして、この土地の文脈ではある種の蔑称でもある。私も負けていない。「チャイナ、違うぞ!ウガンダ人(!?)と呼べ!」と(ガンダ語で)叫ぶ。つまり、相手に「対等に扱え!」とメタメッセージを込めて、訴えているわけだ。これによって、幾人かの素直な子どもたちは「おお、ウガンダ人!(Munayuganda!)」と私のことを呼ぶ場合も幸いにしてある。
だが、何人かのガキンチョどもはそれほどにあまくない。「あ、チャイナだ!チャイナー!チャイナー!お前はチャイナー!」といやらしい響きをこめて、私のことをはやし立てる。中には調子に乗って、「チンチュンチョン!(いかさま中国語) カンフー見せてみろよ、やーい、チャイナ!」と、目の前に立って映画で観た中国拳法の真似をして、はやし立てるガキもいる。
海よりも深い慈悲の心を持っていらっしゃる、公明正大な読者の皆さまはともかく、ウガンダでも「瞬間湯沸かし器」として知られる私は、こういう状況はとても黙っていられない。
にこにことしたまま表情を変えずに(これ重要!)、その目の前で調子に乗っているガキ一人を鷲掴みにして、そのまま有無を言わさずに肩に載せる。できれば、大きな袋を肩に担ぐような大雑把な感覚がいい。そして、担いだ後はのっしのっしとスラムの出口に向けて、とにかく歩き始める。当のガキは、少しパニック状態。何が起こったかさっぱりわからない。そこで、少し歩いた後に、私はガンダ語でぼやく。「さあてと、オウィノ市場(カンパラで一番大きなローカル市)に行って、この子どもを売りさばこうか。中国人たちは高く買ってくれるだろうし。」
十メートルぐらい歩き、私のこの言葉を聞くと、だいたい当のガキはわめき始める。「おろしてー!おろしてー!ここでおろしてぇ!」 だが、これぐらいで許してやると、ガキどもはおそらく「学ばない」。だからもう数十メートルぐらい余分に歩いてやる。そうすると、もう言葉にならずに、ビェービェーとだらしなく泣きはじめる。ここで初めて地面におろして、「許して」やる。
農村部ではもう少し容易だった。ただ、掴まえて、抱きしめ、「愛情表現」として頬ずりを思う存分してやると、これまた効果てきめん、子どもは「感動」のあまり、涙を流して「喜ぶ」のである。喜びの余り、私が放してやるとしばらくは、腰を抜かして動けない子たちが多かった。それを周囲の大人たちはおおらかに笑ってやる。もちろん、ガキどもは、喜びの余り、私と目を合わせると、顔を引きつらせながら笑い、「こんにちは」と礼儀正しく挨拶をするようになる。
だが、いかんせん都市部はガキどもの数は多い。しかも、こちらが本気で何かしないだろうとタカを括っているような生意気なやつが異様に多い。
だから、時にはスラムを出て、タクシー乗り場に行き、そこでタクシーまで乗せようとしたり、ボダボダ(バイクタクシー)に当のガキを肩に担いだまま乗ったりした時に、ようやくはじめて泣きはじめたりする、なんか手のかかるガキどもが多かったりする。
そして、肩からおろしてやり、「もうチャイナと呼ぶなよ。わかったか。」と言い聞かせてやり、かなり萎れて、「うん」とガキはうなずくのだが、それでも三日後には私はスラムで「チャイナー」と呼ぶ子どもたちに再び囲まれることになる。だがその場合、前ほどにはひどくはなく、また容易に近づいても来ない。おそらくかれらもある種の「レッスン」を、私から学んだのだ。
はじめから相手にしないのが一番かもしれないが、でも腹は立つ。そして、子どもたちをそう野放しにして「外国人」を侮蔑させていると、十年後どういう大人になるか分りはしない。正直、二年前に「アジア系排斥運動」がカンパラで起こったとき、ガキよりもたちの悪い大人たちに「インド人!出てけ!」と侮蔑されまくった記憶がある。あれは本当に嫌だった。
だから、少し、ほんの少し、こちらに敬意を払ってもらうように、懲らしめてやる。暴力をふるうわけでもない。見ている周りの大人たちも冗談だと笑って流す。だが、当のガキンチョどもは、本当に売られる、あるいはとって食われる、という恐怖感を少し味わってもらう。もしかしたら、子どもたちにとっては「トラウマ」に残る経験かもしれない。
だが、平気で侮蔑を振りまく大人になるよりかはずっといいと、私は勝手に思っている。それに、こうした方が、私とガキンチョどもの関係はずっと良いと、これもまた私は勝手に思っている。そして「敬意」と「畏怖」というのは、ある意味、紙一重のものなのだなと一人で合点している。
もちろん、賢明な読者の皆さまは、こんなことを「児童虐待」などと判断されないであろうと、私は切に願うのみである。ただ、私は「愛情」を示し、かつ「啓蒙」的に子どもたちを諭してやっているにすぎないのですよ、もちろんのこと。多少、「過剰防衛」と謗られるような気もしないではないけれども。
(ちなみに、あまりウガンダのことを知らない他の人たちには、この方法はあまりお勧めできない。というのは、「人攫い」というのはウガンダで現実的に存在して、以前にここにも書いた「子供の生贄」みたいに誤解されてしまうこともあるからである。当の私も、通りで子どもを肩に担いでいる姿を、見ている人に誤解されそうになったことがある。。。)
(写真は、調査地のスラム近くに住む子どもたち。2010年11月29日に撮影。この子たちはまだ全然性質がよく、写真を撮ると素直に喜び、なついてくれた。こんな子たちばかりだといいのだけれども。)