『怒り』について、映画と過去。 |
昨日に先週末から上映された映画『怒り』(原作:吉田修一/監督:李相日)を観る。
ある真夏日、東京・八王子で夫婦一家の惨殺事件が起きる。真昼の暑い時期にまずは若い妻を殺し、そしてその遺体を風呂場に持ち運んだ後に夕方帰ってきた夫を家にあった包丁で刺し殺すという無残な事件。そして事件の家の壁には血文字で大きく「怒」と書き込まれていた。
事件現場の痕跡から警察は山神一也という一人の男を指名手配する。しかし、山神は警察の手配から逃げおおせ、姿をくらませていた。
事件から一年後、指名手配犯として山神の顔写真などテレビで報道される中、東京でゲイのエリート・サラリーマンである藤田優馬(妻夫木聡)がゲイのたまり場で素性の知らぬ一人の男、大西(綾野剛)を拾う。一方、千葉の港町の漁場で働く槙洋平(渡辺謙)・愛子(宮崎あおい)父娘の下に田代(松山ケンイチ)が、そして沖縄の離島に暮らす小宮山泉(広瀬すず)の下にバックパッカーの田中(森山未來)が現れる。いずれの三人も過去を隠し、自らが何者かを言わない。しかし優馬は大西を、愛子は田代を愛しはじめ、田中は泉とその高校の友人である辰也(佐久本宝)と交流をし始める。
このうちの三人の男の誰かが、八王子の殺人犯人かもしれない。そのような前提で物語は進む。
吉田修一のインタビューを読むと、この物語は日本にて怒ることのできない人々の怒りを題材にしているという。なるほどなと思う。
この国は、怒ることに大きなタブーがある。怒りを公けに示すことが許されない。何かを一人一人が我慢して、窮屈ながらも快適な暮らしを保っている、そんな国だ。
だから映画の中で娘の愛子が新宿で風俗をしていたことを世間からせせら笑われる洋平も、理不尽な暴力に出会ってしまう泉も、けっきょくは自らの性向をオープンにできない優馬も、胸の中に解放できない感情を抱えて生きざるを得ない。抱えている愛情も、未来も、信頼と不信の間に揺れる。
観ていて、何度かハッとする気持ちにさせられる。泉が辰也に「誰にも言わないで」と涙を流しながら懇願するとき、愛子が黙って田代の寝顔を覗きこむとき、そして優馬が大西の名前を警察から伝えられるとき、自分の中の愛情と怒りとでまぜこぜになった過去を突き付けられたような気がした。
私が愛しているのは誰なのか? 私の持っているこの愛や怒りはどこに行くのか?
解放させたい。でも解放したとき、傷つくのは誰なのか?その自らの行き場のない感情を、誰が受け止めるというのか?
昔、むかし、私は好きになってはならない人を好きになった。そしてその人の誰にも言ってはならないという秘密を渡され、私は怒りと愛とに沈んだことがある。
その人との関係も、いまは過ぎ去り、その怒りも愛もとうに忘れていた。だが、不思議なことに、怒りも(正直な)愛も禁じるこの日本の社会はあいも変わらないままだ。
『怒り』はあまりに豪華なキャストとともに、圧倒的な(日本の)現実を、非常に地味なかたちで、それでいながら深く刺さるやり方で伝える怖ろしい映画なのである。