家族の政治学(13) 第2節(9):ジュバ・ヴィクター、ことムゼー・ジュバ |
ジュバはカンバスの父親である。カンバス一家が住み、そしてその後にロバート(タァタ・レーガニ)に引き継がれた家を建てたのはジュバであり、ナムウォンゴ・ソウェトにおける一家の創始者ともいえる人物である。だが彼の近所での評判は、「ムゼー」(長老、尊父の意)と呼ばれているにもかかわらず、それほどに良くはない。
ジュバは彼のナンデ=コンジョのクランにちなむ名であり、カトリック由来のクリスチャン名はヴィクターという。カンバス一家の間ではジャッジャ・ジュバ(ジュバ爺)と呼ばれていることもあり、ここではジュバで通したい。彼が生まれたのは1942年10月であり、当時はザイール共和国(現コンゴ民主共和国)のチョンド(Kyondo)の村落であったという。彼はチョンドにおいて結婚をし、三人の息子の父親となった。だが、彼は1967年にチョンドを出て、妻と息子たちを連れてカンパラへとやって来た。そしてこのナムウォンゴの地に家を建て、都心で車の運転手としての職を得たのだという。
当初はトラックなどの大型車などの運転をしていたがそのうちに個人付きの乗用車の運転手に変わった。およそ1979年前後のことだという。アミン政権の末期ごろに軍の検閲に引っ掛かるたびにトラックやバスの運転手が殺される状況が起きていたという。その際に、軍人たちの指示に従わないものは、簡単に殺された、時には首を切り落とすような真似もした。「アミンはタフな男だった Amin yali tazanya」とジュバは語った。
カンバスが家を離れたのはアミンが軍を掌握する前後のことだったとジュバはいう。1970年前後である。カンバスはナムウォンゴから軍のキャンプ近くに移り住み、そこで商売をやり始めた。
「だがクリスチャン(カンバス)はバカ者だ。」
そう、ジュバは述べた。「なぜ」と私とゴドフリーが尋ねるとこう述べた。「いい歳にもなって、ナムウォンゴで大した土地も家も持てずにいる。カンバスの息子たちを見てみろ。あいつらはみなこの家(自分の家)で居候に近い暮らしをしている。みな、バカな証拠だ。」
私はここに来る前にカンバスに言われたことを思いだした。「あのムゼー(爺さま)が何を言ったところで、信用するなよ」と彼は、私とゴドフリーに忠告したのだったが、その時は彼が意図することが分からなかった。ジュバとカンバスは確かにそれほどに口を利かないにしても、仲が悪いというほどの関係でもなかった。だが、足の踏み場もないくらいにゴミを散らかしっぱなしのジュバの部屋の真ん中で、彼がフランクながらも自分の息子をも悪しざまに語るのは、やや異様な気がした。
ジュバの人懐っこそうな笑顔と裏腹に、近所での評判がやや悪いのには彼が自分の孫娘に近い年頃の娘を家に置き、かつ三人の子どもを産ませていることにある。マァマ・マシカと呼ばれる女性(1987~)は当初、ジュバの妻、そしてカンバスの母親である女性に付き添うかたちでこのナムウォンゴにやってきた。ジュバの妻がコンゴに帰国した後も、ここに残り、やがて2003年にジュバとの最初の子供であり、娘であるマシカを産むことになる。その後に2007年と2009年とそれぞれの年にジュバとの間に二人の娘を産んだ。緑内障が進みほぼ左目が見えなくなっているジュバの身の回りの世話と、子どもたちの世話、そしてジュバとともに湿地にある畑での耕作をマァマ・マシカは何も文句を言わずに続けていた。彼女は内気で、何も言わずジュバの婢のように、彼に忠実に仕え続けていた。とはいっても、スラム内で家事のために農村から連れてこられた彼女は、学校に通っておらず、ガンダ語はともかくとして英語はほぼ話せないに等しかった。そのため、彼女にとってはジュバの家以外にこのカンパラでは行く場所はなく、かつコンゴに帰ろうにも帰り方も分からないぐらいに、世間から切り離されているような状態に置かれていた。
だが話をマァマ・マシカとの関係に振ると、ジュバは自分とマァマ・マシカとの関係については正式な結婚でないことを、自分に責任のないことを述べた。
「あの女(マァマ・マシカ)も自由なのだ。ここから去ろうと思えばいつでも去ることができる。それをあいつも知っている。帰ろうと思えばコンゴにだって帰れるのだ。」
そのように言った折に、彼はふと考え込むように独り言を言い始めた。
「そうだ、俺だって、帰ろうと思えばコンゴに帰れるのだ。コンゴには俺のための土地が用意されている。なぜ俺はここに留まっているのだ。」
その問いに我々は答えることはできなかった。なぜなら、そのような独りごとを彼がつぶやいたにしても、彼にも、あるいは彼の係累のカンバスやその子どもたちにも、コンゴに帰る土地があるとはとても思えなかったからである。