カンパラは古代ローマになぞらえ「七つの丘の街」と呼ばれている。確かにカンパラは丘の街である。いくつもの丘陵が重なり、その輪郭に沿うかたちで住宅地や道、主要な公共施設/空間が拡がっている。ここでは首都カンパラが築き上げられていく歴史を振り返りながら、ガイドブックにある主要な「七つの丘」の略史を述べるとともに、現在の街の概況を見ることとしよう。
歴代のガンダ諸王はいまあるカンパラの都市のそれぞれの丘陵に、自らの王宮と政治執行の地であるガンダ王国の王都チブガ(Kibuga)を据えてきたが、その移動は頻繁に行われ、ある資料によると一八五六年から一八九〇年の三四年間に十回以上もの引っ越しがなされたという*。そのため実際の丘の数は七つに限らず**、いま現在「七つの丘」と呼ばれるものは、19世紀末に「カンパラ」(いまのオールド・カンパラ)が英国の植民地行政局によって設置された後、その周囲に拡がる政治・王権・宗教・経済の中心を担う各丘陵を指して呼んだことから始まる。そして、その名前はガンダ語の「カソジ・カ・エンパラ(インパラの丘)」という名前を縮めたもので、「丘」にちなんだものである。
オールド・カンパラ
まだブガンダ協定が結ばれず、ガンダ王国との関係も不安定な時期である一八九〇年、大英帝国の尖兵であるルガード提督がナイル川から進軍し、ガンダ王カバカが座するメンゴに対面するその丘に、自らの軍事用砦を築いた。以後、なし崩し的にオールド・カンパラは外国人のための一種の租界として発展していくため、旧植民地行政を司っている丘と言える。ナカセロの丘を中心とすると西側に位置し、今の都市名である「カンパラ」は結果的にこの丘の名前からとられた。この発展は独立前後まで続く。現代では一九九〇年代からリビアのカダフィ大佐による資金で、巨大なモスクが建設され、カンパラの丘々の夜景の中でも不思議な威容を誇っている場所である。
ナカセロ
オールド・カンパラが王都チブガの中で特殊な地域として発展していく中、ウガンダの国の行政機関や経済の中心として、オールド・カンパラの東側の向かいに位置するナカセロが同時に発展していくことになる。これは一九六三年の独立以後、ウガンダ国行政の中心として国会議事堂、大統領官邸などが据え置かれた。また、多くの大使館や高級ホテルが丘全体に散らばっており、現在「カンパラ」といえば、ナカセロを指すものとなっている。近代国家や経済を司る場所といえる。
メンゴ
ルガードがカンパラへと進軍する以前、ガンダ王国はこの地域を王都(チブガ)と定め、一八八五年には当時のカバカであるムワンガがメンゴの丘に王宮(ルビリ)を設置した。この丘にあるガンダ王国の中枢に喰いこむため、ナミレンベの英国国教会、ルバガのカトリック教会などが宣教を拡げていった歴史がある。ウガンダの近代史上、ウガンダ国政府とガンダ王国との政治的な争いのほとんどが常にこのメンゴ王宮前か、メンゴとナカセロを結ぶ場所で繰り広げられていったと言ってよい。古くは一九六六年に当時のオボテ政権がアミン将軍を派遣して、メンゴの王宮を軍で包囲したこと、また最近では二〇〇八年にムセベニがカバカの外出を妨げたために、王国政府を支援する人々がメンゴに集まったことなどがある。カンパラ市内ではやや西に位置し、丘には宮殿を囲むように環状の道路が走っており、丘の西には「カバカの湖」という人工の貯水池が置かれている。
ナミレンベ
一八七七年に布教のためウガンダに来たCMS(英国教会伝道協会)は一八九〇年にウガンダで初めての教会の建築を行う。ウガンダにおける近代医療の幕開けとして、アルバート・クック医師はこのナミレンベにて一八九七年にメンゴ病院を設立し、キリスト教(プロテスタント)の宣教と近代医療の普及に努めた。その後一九六〇年代までウガンダ教会(英国国教会)の本部として知られ、現在ではウガンダでも有数の建築物である聖ポール大聖堂が丘の頂上に聳えている。メンゴ、オールド・カンパラの間にあり、都の中心のやや北西側に位置する。
ルバガ
一八七九年にイギリスのCMSに対抗するかたちで、ローマ教会から送られた白い神父団 (White Fathers) により、カトリックの宣教を目的に切り拓かれた場所である。一九二五年に大聖堂が完成してより、現在までカトリック教会のウガンダ本部が置かれている。以前はナミレンベと同様に、メンゴの丘の一部として認識されていた。オールド・カンパラの西に位置している。
マケレレ(/ムラゴ)
一九二二年にウガンダ保護領を含むケニア、タンザニアの東アフリカ英国植民地全体の教育を一手に担う場所として、マケレレの丘にマケレレ大学が設立された。それに先立って隣接するムラゴの丘には一九一三年に熱帯医学(性感染症と眠り病の研究を目的としていた)の研究所が建てられる。これは後にマケレレ大学医学部、およびムラゴ病院へと成長する***。このことからマケレレはウガンダの学術と最高教育機関を司る場所と言えよう。ナカセロからは北西、オールド・カンパラからはちょうど北側に位置している。
コロロ
他の丘と異なり、コロロはガンダの人々や外国からの宣教団によって拓かれた場所ではなく、アチョリの首長の一人が、一九一二年に英国によって故郷から追放され、その後その地で孤独に死んだこと(kololoはアチョリ語で「独り」を意味する)を起源とする場所であるという****。主にその発展は一九六三年の独立以後で、その良質な都市インフラから、カンパラに在住する外交官や援助関係者の多くはこの丘に居住していた(現在、外交官など含めた富裕層は再開発地域のナグルやブゴロビに移ってはいるが)。また丘の中腹にあるコロロ飛行場は、政治演説や選挙の集会など、政治的なパフォーマンスの場所として知られている。
七つのそれぞれの丘の成り立ちは、それぞれが代表するもの(植民地権力、近代国家、王権、宗教、学術、外交など)の歴史でもある。そしてその丘の間や、外側の郊外にもまたとりこぼされた別の歴史が存在する。ただカンパラで面白いのは、これら七つの丘のそれぞれの権力が歴史というかたちで物語性を持ち、お互いが争い合い、人々が不断に動いている情景にあろう。カンパラという都市にはウガンダの歴史と社会とが七つの丘というかたちで不思議なバランスで凝縮しているのである。
*Gutkind, Peter C. W., 1963, The Royal Capital of Buganda: A Study of Internal Conflict and External Ambiguity, The Hague: Mouton & Co.
**19世紀末の植民地行政官たちの報告では四つから十三と一定でなく、また近年の開発でもカンパラにある丘の名前は増え続ける一方でもある。例えば二〇〇六年にウガンダの観光局が出したパンフレット(Kibirige, David, 2006, The Hills of Kampala: … and their history, Kampala: Tourguide Publication) にはその数は二十一と記されている。
***Iliffe, John 1998, East African Doctors: A History of the Modern Profession, Kampala: Fountain Publishers.
**** Kibirige, David, 2006, The Hills of Kampala: … and their history, Kampala: Tourguide Publication