フーコーについて:人類学への引用に関するコメント |
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都市の民族誌の理論的な方法論を考えるために、関根康正さんの『<都市的なるもの>の現在』(東京大学出版会、2004)と木村周平の「都市に(が)居座ること」(文化人類学75/2)を読んでいくうちに、都市に関する理論をさかのぼる必要を感じて、サッセンやカステルらの本を今さらながら目を落とす。記述と空間に関する議論を人類学でする時、クリフォードはもちろん、アパデュライやバーバは欠かせないのだが、かれらの欠点(アパデュライには留保をつけねばならない)は具象性が微妙に欠落していることにあろう。
日本の人類学者の理論的なものに対するある種の偏執性はすごいものがあるが、皮肉なことにその理論的な基盤が、すべて欧米的な概念の上に立っていることは、思想の条件として非常に危ういと言える。特に木村氏のものは、彼の頭の良さをその論文で十分に示されているにせよ、日本人類学理論の拠り所のなさを深く感じてしまう。まあ、それは都市研究者だけに限ったことではないのだけれども。
理論をさかのぼっていくうちに、部屋の書斎でHenrietta MooreのThe Future of Anthropological Knowledge (Routledge, 1996)を発見し、序論部分をめくる。そして三か月前に図書館で借りていたアン・ストーラーの『肉体の知識と帝国の権力』(以文社、2010)の第六章「フーコーを植民地的に読む」を読み進める。
都市のモノグラフで厄介なのは、都市に表出する(国家的な)権力をどう対象化して、書き表すことができるかということである。これは先日に関根先生と話した際に同意したことでもあり、そしてその権力の概念をきちんと人類学の言葉で示すことも難儀な作業ではある。人類学理論で一時期(90年代前半から2000年代前半まで)流行ったのは、フーコーの引用であり、そしてそれを欧米の文脈から外して、どうポスト植民地的状況に落とし込むかということだったが、その意味でストーラーの議論は非常に示唆的でもあった。
だが、ストーラーは歴史学者だからまだ問題ないが、人類学者の場合は「権力」について書き始めると、「権力」の立場に呑みこまれ、いつのまにか「権力」の場から外されている人々について書くことを忘れてしまう。私が木村氏や最近、某大学で盛んに引用されているSTSの議論に肯んじないのはその部分でもあり、またそうした理論性は、平明な描写(これは他者の生活を描き、それを知らないものに伝えるというミッションには欠かせないものだ)から遠く離れてしまうということにも繋がる。
現代のイギリス人類学の理論を牽引するMooreはどんな感じで議論しているかと思って、上記の書を手に取ったのだが、やはり時代的な制約(9.11の五年前!)ということもあり、フーコーの統治性について触れるだけで、今から見てもそれほどに示唆的な議論は行っているように思えなかった。どちらかというとストーラーの方がフーコーの長所も欠点もよく捉えた書きぶりで、少し突っ込んで読んでみる必要があるだろうか。9.11以降、やはり社会科学における「権力」の捉え方が、ものすごく覇権性の伴う帝国の権力に呑みこまれてしまっているということもあるのかもしれない。その意味で、暴力を伴うハードな権力にばかり注意が向かれていて、身体の規制やモラリティまで踏み込むソフトな権力はどうしても軽視されてしまう時代に、我々は身を置いているのかもしれない。
昔と比べて、人類学における理論性が多元化していることは間違いない。いま、とりあえず手に取って読もうとしているのはTaussigの議論だが、もう一つDas and Pooleの Anthropology in the Margins of the Stateの議論でもある。 周縁から「権力」をあぶり出すのは、どんな手法があるのか。それは書きぶりだけで解決しない問題のように、最近は思えてくるのである。
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以上、雑感。
(写真は上空から見たカンパラのあるスラム地域。上からの視線。2008年10月に友人のT.K.氏によって撮影されたもの。)